手記バックナンバー
2006年08月
時間をほどく
2006/08/03
手記カテゴリー
著書
「時間をほどく」が出版され、一ヶ月ほど経ちました。何人かの方々から本の感想をいただきました。下記のものもその一つです。私の最初の本「哀切と痛切」をまとめてくださった編集者からのメールです。ご本人の許可を得て、匿名で転載します。私にはうれしいお便りでした。
小栗監督
新刊の刊行おめでとうございます。
朝日で広告も拝見しました。
ご寄贈に預りまして、ありがとうございました。
拝読させていただきました。
小栗さんの絶望と希望が、
全編、時と所を変えて
つづられていますが、
3章と4章はそれが凝縮されていて、
深く考えさせられました。
日本映画への希望をつなぐこと、
期待の糸を切らさないでいこうという思いを
読者は抱くに違いないと思います。
小栗さんの書き物の最大の魅力が、
見事に発揮された編集でした。
今回も触れておられますが、
映画製作と興行が日本の政治、経済、文化の
あり方と深くかかわるものであるだけに、
「希望」や「期待」をもちこたえさせるのは難業ですが、
観客はもはや「選挙民」とか「市民」と考えるべき
時代なのかもしれないですね。
群馬での映像講座にも期待しています。
あとがきにも書いておられる
田村高広さんは「泥の河」を
生涯の一作にあげておられました。
稀代の俳優の言葉は重みがあります。
またお目にかかれれば幸いです。



友人の友人がスイスで見つけた「埋もれ木」の批評を送ってくれました。スイスは人口の少ない国ですが、これまでも私の全作品を公開してくれています。ドイツ語から英語へ翻訳したものの和訳ですので、正確ではありませんが、以下、転載します。
奥深い映像の世界へととけ込む
山間の小さな町の高校に通う少女、まち。彼女は、どちらの方向へ進んだらいいのか分からぬ、不確かな年齢にさしかかっている。互いに物語を交換するという遊びに、友人と興じ始めた。
物語るということは、世界を作り上げていくことにほかならない。たしかに、物語は現実によりかかるところはあるが、その先の世界へと飛び出すのならば、よりかかっている現実から脱却し、あらたに独自の「現実」というものを創造しなくてはならない。日本人である小栗康平は、その新しい世界を開拓しうるイメージを持ち合わせている。
隠された木々という意味であろうか、『埋もれ木』は我々を巧妙 に仕立て上げられた映像への旅へと誘ってくれる。物語がどの現実を根拠としているのか、物語が語られているその立ち位置がどこなのか、が どんどん見えなくなっていく。
彼が与えたものは、我々の方に開放された一種の「未来物語」なのかもしれないが、多くのものが隠されたままになっている。映像というのは直接的に我々に語りかけてきて、言葉の論理には従わない、と小栗康平はいう。絵本を見たり、母親が語る物語を聞くことから、我々は世界を最初に経験する。母は私たちに最初に絵本を開いてくれたのだ。
完璧に構成された映像、はっと 息をのむような美しい光とそれによる影、そして隠れた詳細がつくりだ す、なんとも華やかな絵本である。
「埋もれ木」の見慣れぬ世界を見ることによって、我々はすっかり子供の視点を失ったのだと気がつく。この絵にふれて、世界の不思議をありのまま受入れるべきだと、小栗は我々に提起しているように私は思う。
Walter Ruggle