小栗康平 手記

シネマまえばし

2010/11/29

表記の映画館で、私の全作品上映が予定されています。
下記は先週、東京新聞のコラムに書いたものの転載、です。
「シネマまえばし」はhttp://www.cinemamaebashi.jp/

「シネマまえばし」という小さな映画館がある。家主は前橋市で、NPO法人が運営する。郊外にシネマコンプレックスはあるが、市街地ではここだけだ。旧市街地の、空洞化対策の一環でもある。
映画館の入っていた空きビルを行政が買い取って、安い家賃でテナントを募った。ところがどこも入ってくれない。やむなく映画館だけが先行してオープンした。孤軍奮闘はしてはいるけれど、なにせ映画館以外はもぬけの殻、というのも寒々しく、だったら中途半端に経済を追わないで、ビルの全体を美術館にしてはどうか、という構想が立ち上がった。詳細はまだこれからのようだけれど、そうなると映画館が美術館の中に入ることになる。これはこれで面白い。もちろんそれで街中に人が戻ってくるほど甘くはないだろう。
でもこれまでとは根本的に違う、別な一歩が、街にも映画にも必要なのだ。その「シネマまえばし」で来月、開館一周年記念と銘打って、私の全作品上映が予定されている。前橋は私の郷里である。
私がこの街で映画を見るようになったのは、高校に入ってからのことである。悪所に隠れるようにして、私は映画館の暗闇を知った。昭和三十年代の後半のことで、日本映画はすでに産業的なピークを過ぎてはいたけれど、街はまだ壊れていなかった。

十二月の十八日には川崎のグリソムギャングという、これもまたごくごく小さい映画館で「埋もれ木」の上映があります。こちらは一日だけ。ある女性が小栗映画を全部やりたい、そう企画されて、いわば上映のためのプロデューサーを務めてきました。一年一作、今年で五年目です。キャパシティからいったら当然赤字なのですが、それも覚悟の上で。http://grissomgang.web.fc2.com/schedule1012.htm#umoregi

「パリ」というタイトルのこのブログ(2010/9/28)で、いずれ後日にとお約束していた原稿は下記の通りです。転載ばかりで気が引けますが。

次は、どこでだれとはぐれるのか、それが楽しみなのです。
そう伝えてくれたのは、四十歳前後かと思われる女性である。先月、パリの日本文化会館で行われた私の全作品上映のときのことだった。「眠る男」を指してそういったのか「埋もれ木」だったのか、はっきりしない。でも私の映画はそれまでにも見てくれていたようだったから、作品の傾向としてそう語ってくれたのかもしれなかった。どちらにせよ素敵な感想で、私はうれしくなった。
はぐれるとは、同行のものを見失う、他の人にまぎれて連れの人からはなれてしまう、などというのが辞書にある語彙である。
この同行のもの、連れの人というのは、映画でいえばさしずめストーリーということになるだろうか。だからそこで、はぐれてはふつうは困ったことなのだ。ストーリーという道筋に行きはぐれる、わからなくなる。
しかしその女性は物語にはぐれた、とはいわなかった。私がはぐれる、そのはぐれる自分をよろこびとする、といってくれたのだ。これはずいぶんと違うことになる。
まず、物語というものの捉え方について、違っている。同行していくものでは、ないのである。導いてくれるもの、でもないのかもしれない。つまりは物語は「私」と離れて、向こう側にはない。
森に入れば、けもの道、そば道はたくさんにある。そのいずれを分け入るかは「私」である。かたちを成しきれない、記憶や日々の断片が、映画の中のなにごとかと結びつく。映画の物語はそうしてつくられる、細い道だ。誰でも同じように通る、舗装された直線道路ではない。わかった、とそれで溜飲を下げ、忘れてしまうような代物でもない。はぐれてこそ、満ち足りていられる、でいいではないかと、私も思う。
はぐれれば居場所が分からなくなる。この「居場所」というのも、映画の大事な問いかけ、である。今いる場所がどこか。それは現実なのか、つくられた記憶の情景なのか、選択肢は無限にもあるだろう。
映画はショットを替える。ショットを切り替える。見る角度を変えるといってもいい。人物の「向き」がそれで違って見えるし、人物がどこを向いているかが違えば、その視線の先にあるものも違ってくる。それになによりも忘れてならないことは、映画で人物だけが「見られている」わけではない。
シーン、場面といっているものが変われば「場」が変わる。これは当然なこと。では、人物はいっしょで「場」だけが変わっていったら、そのことでなにが示されたことになるのだろうか。映画ではふつうに行われていることだ。
川の淵で悲しいことがあった。その人物は次の場面で一人、レストランにいる。あるいは暮れなずんだ部屋の中かもしれない。いずれにしてもそこに至るまでの行為、経過は、すべて省略されている。省略されて、感情だけが異なる「場」に直結して、連続している。部屋であれレストランであれ、そのときその「場」は、それまでとは違って見えている。違って感じられている。
写された「場」は二次元の平面だから、現実の遠近をもっていない。絵画では色によってだけでも、遠近が変わる。現実の大きさや距離がそのままそこに持ち込まれているわけではない。映画の画像も基本はいっしょである。ショットは、つくられている。さらにそれぞれのショットは、時間をもって積み重ねられる。その積み重ね方によって、「場」はいかようにも加工される。左右のどちらから先に見るのか、前か後か、見えてくるものの順番によって、理解や印象はどんなふうにも変容する。映画は断じて、現実の位置関係など、そのままには持ち込んでいない。
小栗映画は境界を超えていく、それまでにあった(と思える)境界を、ないものにしていく、消滅させていくと、論評する人がいた。歴史的、社会的、民族的な境界、さらには男と女、人と人との境界、それまであったであろうそれらの境界が、映画の進行とともに消えていく、と。これも私にとっては「場」の問題、そのものである。
この「ツインアーチ」の「越境する視野」(第二回)で私は次のように書いている。
「場所、地域、境域というものを、そこで途切れる、そこで終わるものとしてイメージするか、そうではなく、そこからさらに先へと延びていく、むしろそのための踏み切りとしてイメージするか」
どこかに中心点が設定されて、そこから離れれば周辺になり、辺境になる。境界はそこに引かれる。その中心点とは、時代の思想、観念、あるいは社会的な現実、その枠組み、歴史的体験などなどであろう。固定された点、といってもいい。
地理的なものに置き換えるとわかりやすいだろうか。比喩でいえばこんなふうになる。県庁が所在する中心の都市に住む者と、県境の村に住む者とを比べて、村に住む者たちは自分たちが「端っこ」で暮らしているとは思わない。日々の生は、けっしてそういう顔をしていない。身一つがその「場」で生きているのであるから、生きているそここそが中心である。隣の県域とも日常的に行き来する。行政の区域が境界にはならない。
一人ひとりにとっての「場」は、それぞれに固有であり、その「場」こそが中心となる。だから中心は人の数だけ偏在するといっていい。一つではない。
「場」の描写によって、境界が無化する。映画の「場」には、もちろん県境などという人為は写らない。暮らしのじっさいと自然、風土が見えるだけだ。頭の中につくられているステロタイプの境界も、写っていない。写っている、それに縛られていると思っていたことがあったとしたら、それが溶解する。
映画の人物は「場」を生きるもの、生きようとするものとして、表現さている。私はそう思っている。生の具体は「場」というもう一つの具体と相まって、描写される。それこそが映画の力だ。
映画で描かれる人物が、そこで深い生を生きていれば、現実の利便や表層にある通念は後退していく。背後に退く。深い生は「場」と結びついてしか、現われないからだ。
映画の「見ること」は感覚を通して、なされる。たった一枚の静止したタブローからでも、私たちのこころはどこへでも旅することができる。映画はそこに言葉をともない、動きをともない、いくつもの迷いを誘っている。はぐれてこそ、である。

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