小栗康平 手記

「伽倻子のために」の上映

2013/04/15

「東京国立近代美術館フィルムセンター」で、「逝ける映画人を偲んで」という企画上映が行われています。キャメラマンの安藤庄平さんを偲ぶものとして「伽倻子のために」が上映されます。フィルムでの上映機会の少ない作品ですのでお知らせします。

4月25日(木) 15:00から
5月26日(日) 13:00から

下記はフィルムセンターの「NFCニューズレター」2013年四月-五月号に書いた原稿です。転載します。

映画屋さんは名前をつづめて「ちゃん」をつけたり「さん」をつけたりする。つづめるだけで呼び捨てにすることもあるけれど、それで親密さがそこなわれることにはならない。安藤庄平さんを私は庄ちゃんと呼ばせてもらっていた。浦さん(浦山桐郎監督)の呼び方にならってのものだ。お二人はそれぞれが助手時代から日活でごいっしょだったけれど、私はフリー、といえば聞こえがいいけれど、所属するところもないところからのスタートだった。浦さんと庄ちゃんとが組んだ仕事に参加させてもらったのは、テレビの「飢餓海峡」しかない。浦さんの「私が棄てた女」で見せたようなすばらしいショットを、テレビの、時間も予算も限られた中で、庄ちゃんはいくつも撮った。

浦さんの言葉で言えば、庄ちゃんは芝居が分かっている、人だった。読み下せば、役者が演じていることをしっかり画として見てくれている、ということだろうか。そんなことは当たり前だと思われるかもしれないが、意外とそうではない。いい画、かっこいい画を撮ろうとして、どこに目がついているのだろうとあきれるようなキャメラマンだっているのだ。芝居、とは比喩で、撮ろうとする映画の、感情の流れにいつも気を配っている、と言い換えてもいい。映画づくりで、その作品に固有の感情がいつどこから起こり始め、どこを経由してどのように深まっていくのかをあらかじめ予測するのは難しい。奇妙だがそうだ。じっさいに一つひとつを画にして行きながらでないとわからないことが多い。
撮影はいかにも見えているものをさっさと抜かりなく撮っているかのように思いがちだが、現場での感覚で言えば、暗闇をみている、見えていないものに目を凝 らしている、そんな感じに近い。今ではデジタルカメラのモニターでなにがどう写っているかをみんなが知っているかのように撮影は進むけれど、そうだろうか。フィルムは現像してそれが無事に狙い通りに上がってきてからでないと、見た、見えたということにはならない。現像こそしないものの、デジタルでもいっしょではないか、と私などは思う。
そういう現場での、沈黙とでもいうものが、庄ちゃんとの間にはたくさんあった。それは一つには、庄ちゃんの言葉の少なさからくる。余所でもそうだったのか どうかは知らないのだけれど、私とはとにかく口が重かった。酒でも飲まないとまったく喋らないのではないかと思うほどだった。そういう庄ちゃんを私が嫌だったかと言えば、そうではない。むしろそれが信頼感になる。映画は言葉ではない。言葉にしないで、あるいは出来ないでいる領域があったほうがいい。
もう一つは庄ちゃんと私との、たぶん文化の違いからくる、お互いの遠慮から来ていた沈黙、もあったかもしれない。庄ちゃんは私よりもひとまわりも歳が上で ある。抽象的なことを議論することはなかったから、本当のところはどうだろうかと、なんというかその都度、確かめ合う、そのためのよどみ、のようなものがあった、ようにも思う。風通しなんかよくしなくていい。そのよどみの中で豊穣である、そんな緊張感に近いものがあったかもしれない。
「伽倻子のために」の北海道ロケのときである。北海道は都合、三回のロケになってしまったのだけれど、その最初のロケで私は何をどうしたらいいのか分からなくなってしまい、予定の三分の一も撮らずに引き上げて、もう一回、セット撮影からやり直したことがあった。台本があって撮るもの、ことが決まっていてスタッフも役者もいるのだから監督がわからなくなる、もないのだけけれど、わからなくなる。こんなときでも庄ちゃんはずかずかとその迷いに踏み込んでくるようなことは決してしなかった。待ってくれた。感情の流れを知っていてくれたのかもしれない。私にはかけがえのない大先輩だったのだ。いっぱい、ありがとう。庄ちゃん。

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