小栗康平 手記
4Kレストア版
2024/03/13
「眠る男」の「4Kレストア版」がようやく出来上がった。ようやくと言うのは、以前から企図していたものだったけれど、資金面で躓いていたからである。デジタル化には何百万円もの費用がかかる。それだけかけても旧作の上映でその分を取り戻すのは容易ではない。クラウドファンディングでやろうかという話も出たけれど、そういう性質のものかどうかわからなくて、そのままになっていた。それがここにきて急遽、動いた。
かつて松竹で私のDVDボックスを出してくれた角田誠さんが株式会社イクシード(以下、イクシード)という会社に私をつないでくれた。話をしてみたら、会社の代表を務める中野真佳さんのお父さんを私は知っていた。「株式会社ビジョン・ユニバース(以下、ビジョン)」という会社をやられていて「眠る男」の時にお世話になっていたのだ。
「眠る男」は私が映画で初めてCGを使った作品である。夜の川面、遠くを走る夜汽車の明かり、葬儀場の煙突から出て山の方へとたなびいていく煙などで、ごく限られたショットだったけれど、単純なマット合成だけではなくて3Dでのアニメーションもあった。
ロサンゼルス(以下、ロス)でCGディレクターをしているアートさんという知人が私にいて、そのロスでの作業と日本側とをビジョンが橋渡ししてくれたのだった。CGについては私も素人だったが、その私がこの社長は仕事のことを分かっているのだろうかと心配になるような方で、些事にこだわらない豪快な人だった。経営の勘のようなものを独自にお持ちだったのかもしれない。表参道とロスとに事務所があって、ロスのそれはびっくりするような大きな邸宅で、きれいな女の人が二人、三人、侍るようにいた。今でいえばセクハラ、パワハラの権化のような人だったかもしれない。なぜか私は可愛がられた。
私もロスに出向いて仕上がりを確認に行ったりしていたのだけれど、当時のコンピューターはなにせ動きが遅かった。ちょっと複雑な指示を出すと、レンダリングに一晩を要するような時代だった。時間があるので誘われて貸しクラブでゴルフまでやった。
三年前に亡くなられていた。イクシードにご挨拶に伺うと、奥様がわざわざ出迎えて待っていてくれた。私は初めてお会いしたのだが、ビジョンはまだあって、私がそちらをやっていますとおっしゃっていた。中野真佳さんはお父さんの存命中に別会社を起こされたのだろう。当然ですね、と私が言うとみんなで笑ってしまい、昔話に花が咲いた。そんな縁があって、今回、赤字を承知で4Kレストアを引き受けてくれたのだ。
レストアはリマスターなどとも言われていて、語義的には元の状態に戻す、修復するなどで、車や家具などをリマスターするなどと使う。ただ映画の場合、そこにはもっと積極的な意味合いがある。フィルムは保存状態にもよるけれど、年月が経つと劣化や褪色を免れない。これをデジタル化していい状態に再生していく。ただ元に戻すだけではなく、再創造と言ったニュアンスもある。
ネガフィルムに光を当てて一コマずつスキャンして電気信号に変えていく。「眠る男」は一時間四十五分の尺数だから百五分、秒数に換算すると六千三百秒である。フィルムは一秒に二十四コマ回転しているのでこれを×と十五万千二百という計算になる。近頃はスキャニングの自動化がだいぶ進んだと聞いているけれど、それでも多くは技術者による手作業になる。ロスでお目にかかってはいなかったけれど、ビジョン時代からのカラリスト、大ベテランの田嶋雅之さんが担当してくれた。
フィルムの反り、パーフォレーションの歪みからくる画面の揺れ、パラと言われているネガについた傷、やらねばならないことはたくさんある。
フィルムの持つ情報量はデジタルのそれよりもはるかに多いのだけれど、白は飛び過ぎてはいけない、黒はこの光量ではつぶれてしまう、そういったラティチュード、許容の範囲というものがあって、その先は映画館で見ても違いが分からない。でも目に見えていなくても、そこでの微妙な諧調は情報としてフィルムには記録されている。
これがデジタルに置き換わる。電気信号だから、ラティチュード、ダイナミックレンジともいうようだが、それが格段と広がる。ただ広がれば広がったことによって逆に見えなくてもいいところまで見えて来てしまったりするし、画面のバランスが壊れるところも出てくる。それをグレイディングという作業で整える。色調や諧調、コントラストなどを調整する。カラリストの腕の見せ所である。
フィルムの褪色は三原色それぞれで劣化の進行が違うらしい。あるショットの特定の色だけをいじるのはアナログでは難しいけれど、デジタルでは容易にそれが出来る。そもそも色を見せる、感じられるものにしていく原理が違っているからだ。技術的には未だよく分かっていないから間違えていたらごめんなさいなのだが、R(赤)G(緑)B(青)に振り分けられた光の波長を、それぞれ二百余りの諧調で記録していけば千六百万ほどの色が出せるらしい。RGBの諧調をさらに細かく上げて行けば億を超える色も可能とのことだ。
ただ色は、ものの形を認識していくのと違って、単独での絶対値と言ったものがない。認識というよりは、感じるものなのである。補色という言葉があるように、色は頼り合っているとも言えるし、あやふやで頼りないとも言えるかもしれない。赤を長く見ればその赤が網膜に残って次の色に引きずってしまう。カラリストの田嶋さんは、十秒以上は同じ色を見ないと言っていた。問題は、デジタルで「新たに」作り出される色を映画でどう使うかだろう。
映画はフレームで切り取られているから、両の眼で見ている普段の私たちの視野よりもずいぶんと狭い。そのスクエアの平面でなにもかもがくっきりと形を成し、色鮮やかに見えてしまっては疲れる。神経が持たない。ぼけていてちょうどいい、というところもあるだろう。あくまで描かれる中身に即して、感情に揺り動かされて、見えるものだ。
今はほとんどの撮影がデジタルで撮られている。デジタルでの撮影現場は、RAWデータでとにかく情報を漏らさず撮っていればそれでいい、というようなものに変わってきているらしい。後のグレイディングでどうにでもなると考えてしまうからである。気持ちも感情も追い求めない撮影現場とは一体どういうものだろう。
「眠る男」の「4Kレストア版」で、ロングショットの力がフィルムのときと比べて表現として格段に強くなったと感じられたところが幾つもある。屋外での能の舞台があるのだけれど、面(おもて)も衣装もひたすら美しい。背後の緑にグラデーションをつけようとして撮影時に美術部が植えた竹の林が狙い通りに揺れている。
四月になったら「伽倻子のために」のグレイディングに入る。楽しみである。
小栗康平