小栗康平 手記

時間に触れる

2024/06/10

パソコンの奥に隠れていた文章が出てきた。何年か前のものだ。

「東の空を黒い雲が高々と覆っていて、月が雲間に隠れたり現れたりしている。動きが早い。西の空は一面に大きく夕焼けていて、薄雲を横に長く浮かせている。その下にさらに、遠くに連山を見るかのような雲がもう一つ形づくられていて、空の表情は尽きない。
暮れる間際の日の移ろいを受け止めて、見えるものが刻一刻とその見え方を変えていく。沢沿いの黄色く色づき始めた田、その上の段は捨て去られた休耕田で、そこはすでに闇をまとっている。木立のひと群れ、その向こうに一軒の人家が見える。ただそれだけの視野なのに、その画角の中で多くを語ってくる。
細い道から舗装された通りに出るとそこが坂道になっていて、両側の白いガードレールに天空の明るさが落ちて、ことさらに白く浮き立つ。不意にランニングの人が現れて、行き過ぎた。ライトを点けた車が道路の脇に寄って止まる。後ろからもう一台、軽トラックが来ていたのだ。
西へと降りる道は木々が両側から覆いかぶさっているので、下の路面だけが夕日を受けて赤い。左に折れて墓地のあたりを過ぎると、道は緩やかにカーブして登っていく。開拓で拓かれたと思える台地が畑から宅地に変わったのは、ここ十年ほどのことだったろうか。
暖かい風が頬をなぶる。暮れ際のうすぼんやりとした闇の中で、家の白い壁面が落ち着き払って静もっている。収穫を終えた畑の土が黄土色よりさらに黄に転んで大きな面として広がるふうで、なんだかとても気持ちがいい。さらに暮れて来て、数少ない街灯の下を行き過ぎると、自分の黒い大きな影に驚かされる。私はやがて小径の暗闇にまぎれて見えなくなる。」

地方の片田舎での散歩である。小さな里山のへりに当る辺りに移り住んでもう三十年からになる。「秋の十五夜までもう何日かという半月(はんげつ)を少し過ぎた頃」と注があった。台風が近づいていた。
私は携帯電話のカメラで撮りながら歩いたのだ。普段はもちろんそんなことはやらない。携帯で写真を撮ることはあってもムービーにしては撮らない。
気持ちとしては風景の中に人物を置いて甘やかな空気を受けとめようとしたものだったと思う。人物(私)の後姿をフルショットで入れ込んだ広めの画の、ゆっくりとした手持ち撮影のつもりである。しかし歩いている自分を一人でそうは撮れないから、携帯を胸の前に突き出して前方をただ撮っていっただけである。それでも私は、間違ってもカメラは人物の正面には回らない、後姿であり続けなくてはいけない、などとまだ思っていたはずである。
順番が逆になるけれど、これをシナリオのように言葉にしたらどう伝わるだろうかと書き留めたものがこれである。読み直して、今これを例えばワンショットで撮ったとしてどこまでが写っただろうかと考えた。意外と難しそうだ。やってみなくては分からないが正直なところだ。ここにあるのはモノローグばかりでダイヤローグはない。劇の発端もない。だからと言ってことさらな対立や葛藤を求める気は起こってこない。

白川静さんの『漢字 生い立ちとその背景』(岩波新書、28頁)に次のような文章がある。
「人々は風土のなかに生まれ、その風気を受け、風俗に従い、その中に生きた。それらはすべて『与えられたもの』であった。風気・風貌・風格のように、人格に関し、個人的と考えられるものさえ、みな風の字をそえてよばれるのは、風がそのすべてを規定すると考えられたからである。自然の生命力が、最も普遍的な形でその存在を人々に意識させるもの、それが風であった。人々は風を自然の息吹であり、神のおとずれであると考えたのである。」

この章の冒頭に「ことばの終わりの時代に、神話があった。そして神話は、古代の文字の形象のうちにも、そのおもかげをとどめた。」とある。ことばの終わりの時代とは、漢字が発明される前と理解していいだろうか。「そこでは、人々もまた自然の一部でなければならなかった。」と続く。
ここが大事なところなのだろう。「自然の一部」とは、私たちが頭でもっともらしく口にしている「環境」の概念には収まらない。主従が違う。否応もなく、私たちは自然の一部でしかないと言うことだ。古代文字から現在のそれに変わって神話も消えた。風のそよぎに神のおとずれを見なくなった。
撮影は他者を撮る。被写体を対象化しないことには光がレンズを通過しない。ここですでに私たちは自然と離れている。対象とすることで彼我の距離が生まれ、初めてものが写る。しかしその距離があることで、形あるもの、事物の奥に潜んで流れているに時間に、映画は直接に触れることができる。上手くいけば、だが。
直接に、が可能なのは、カメラが器械だからだ。人の言葉として対象を同定しなくてもものは写る。同定しないからこそ、形象の見つめを通して、結果として映画固有の時間が浮かび上がる。普段の人間の眼では見えていない時間である。そこが映画の不思議である。

ここに簡単に書いてしまうようなことではないけれど、大事なことにつながっていくので、触れてみたい。
五十年以上も前に好きだった人と再開するチャンスがあった。知り合いの編集者が出入りしていたジャズバーのオーナーがその人といとこ同士で、なんの弾みかその人も私に会いたがっていると伝わってきたのだ。
電話が繋がり、私は保土ヶ谷駅まで出向いた。改札口での待ち合わせだったけれど、その人はマスクを外してじっと正面を見ていた。まだパンデミックの時だった。半世紀以上も過ぎて、好きだった人の顔をそこに認めた時に、私は、ああ、人間とはやっぱり孤独なんだと思った。どうしてそう思ったのかは分からない。
お会いして積もる話もし、その後、食事も何回かご一緒した。二人が今さらどうにかなることでもなく、どんなふうに夫を亡くしたのかなどまで話は飛んで尽きなかった。長い年月を私もまた等しく過ごしていたのだ。
まったく別な日のことである。その人と何の関連もなくただ食器の洗い物をしていて、私は突然こう思った。ああ、あの人もこうやって食器を洗って長い時間を生きてきたのだ。人生はドラマじゃない、この皿の手触り、水の流れる感触を通じて感じられるものだ、と。

年齢が行くと若い時よりも「もの」に目が行くように感じられる。机の上のなんでもない鉛筆削りをじっと見ていたりする。
その一方で書庫のさして多くはない書籍が乱雑に積まれているさまを見て、いったい自分はここからどんな言葉をもらって、その言葉はこの先どうなっていくのかなどと考え、呆然としたりする。
なんだか言葉が事物から離れていく。事物の方が残る。こんなことでいいのかどうか、わからない。呆けては困るけれど、老いは事物を見つめる映画の時間でこそ掬えるのではないかと夢想する。

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