小栗康平 手記
慶応義塾大学での催し,中止です
2007/05/27
「はしか」の流行で、慶応では今週のすべての講義と学校行事が取りやめになったとのことです。六月一日に予定されていた「埋もれ木」の上映と対談も中止になりました。再度、日程を調整してとのことですが、とりいそぎお知らせします。
○ 以下、転載の七回目です。
2006/9/26 掲載 一人前
とりたてて温泉地と呼ばれるところではなくても、町や村にはおおむね一つ、公営の温泉がある。竹下内閣の「ふるさと創生資金」が引き金になってのことだ。深さとそれに要する経費の問題だけで、掘ればいたるところで温泉は出るらしい。ただ湯量が十分で泉質もいいとなるとやはり限られる。
私も湯が好きで、近いところはあらかた行っているけれど、多くの所が温泉とはいっても循環型で、消毒のための塩素臭が鼻につく。
穴場は前橋の駅前で、ケヤキの並木を二、三分歩いたところ。ここは民間だけれど、街の中にこんな湯が湧くことに驚く。いうところの掛け流しで、伊香保の茶色の湯に似ている。
湯はさほどではないとしても、町や村の公営の温泉のいいところは、そこが地域の寄り合いの場になっていることだろう。顔なじみらしい人たちが湯に浸かりながら、のんびりと話をしている様子はなかなかいいものだ。
田舎の人たちは都市部の人たちより、身体が立派である。とくに六十代後半から七十代の男たちがそうで、専業かどうかは分からないけれど、たぶん農業にたずさわってきた人たちだろう。まだ筋肉も落ちず、贅肉もない。
不思議なことだが、そうした人たちに限って、顔がいい。顔に味があって、なんというか揺るぎがない。一人前の人間とはとはこういうことか、と思える顔である。労働がそれを作り上げたのだろうが、それだけではないだろう。なにに向かい合って生きてきたのか、その違いの現れではないかと、私には思える。
2006/10/3 掲載 暴力的
ベトナムの映画人たちと話す機会があって、日本映画は暴力的なシーンが多い、なぜですかと質問された。そうではないものもあるけれど、ベトナムの人たちから見れば、暴力シーンがあるないにかかわらず、日本映画が暴力的に感じられる、そういうことだろうかと考えた。
暴力、あるいは暴力的な言動も映画やテレビで見慣れてしまうと、いつの間にかそれはそれでそういうものだと、見る側もさして疑問も持たなくなる。ののしり、苛立ち、軽蔑し、ささくれ立つようのやりとりまでその範疇に入れれば、そうではない映画やテレビを探す方が困難なほどだ。冷静になって見回してみれば、国中で不満を言い争っている印象さえある。
ベトナムに限らず、タイ、インドネシアなど東南アジアの映画を見て共通に感じるのは、霊魂とか精霊といった見えないものへの人々の思いのあつさ、である。これをただ、信仰の問題だと片付けてはいけない。ものを見る目、こころのありようのことだ。映画は目に見えるものを相手にして成り立っているから、人々が見えないものへの想像力、配慮といったものを欠いていくと、映画はとたんにゴツゴツし始める。描写もとんがって、含みが消えていく。その分、言葉が過剰にもなる。
ベトナムは悲惨な現代史を生き抜き、今は社会主義体制のもとでドイモイ(刷新)政策を進めている。傷はまだ癒えてはいないし、抱えている矛盾も深い。過ぎ去っても悲しみは消えない、彼らからそんなふうに言われると、暴力的なのは私たち自身のことだとも思えてくる。