小栗康平 手記
哀悼
2025/01/20
朝九時ちょうどに携帯が鳴った。知らない番号だったのでそのままにしていたら、留守番電話に音声が残った。開いてみると、李恢成さんの次男からだった。父が一昨日の午後、病院で亡くなりました。今日、家族葬で小さく、火葬場へ行きます、とあった。私は直ぐに折り返した。その日、私はたまたま東京にいた。どこへいけばいいかと尋ねると、私たちだけやりますので、と。出棺前にとにかく連絡だけはしようと電話をかけてくれたことが感じ取れたので、お別れに行けるようになったら教えてと言ってそのまま私は電話を切った。
それから十日間経った一月十五日、新聞で[李恢成さん死去]が報じられた。お別れの会のようなことはまだ書いてなかった。
連絡が次男からだったことには理由がある。李さんに息子が三人いる。長男は私の映画で二本、助監督についているけれど、『FОUJITA』の後、地方局のディレクターとして九州の方に行っている。アボジの近くにいるのは次男だけだ。
何年前になるだろうか、三年か四年かもっと前か、長くご無沙汰してしまっていたので、思い立って李さんに電話を入れてみた。奥さんが出られて、「今、話せるかどうか分かりませんが聞いてみます」と言われてしばし待っていると「はい」と不機嫌そうな声が聞こえてきた。小栗です、ご無沙汰してしまって申し訳ありません、と話し始めると「どちらのオグリさんでしょうか」と遮られた。李さん特有のアイロニーだろうと思ったけれど、その後もうまく話が続かない。なんだか意思疎通を欠いたまま気まずく電話を切ることになってしまった。
李さんには『伽倻子のために』を映画にさせていただいただけではなく、その後も公私ともに深くおつき合いさせてもらってきたと思っていたから、どうしてそんなことになってしまったのか、あれこれ考えた。
しばらくしてからだったが、葉書でお尋ねした。なにか失礼なことを私はしてしまっていたでしょうか、と。返事はなかった。
次男にどうなっているのか教えてほしいと連絡をとった。「原稿で手一杯で余裕がなくなっているのだと思います、オモニも認知症が始まっていろいろ大変で、すいません」ということだった。次男としてはそう戻すのが精一杯だったに違いない。
その“手一杯の原稿”は、おそらく二十年にわたって書き継いできている長編『地上生活者』で、第六部まですでに単行本になっている。出るたびに李さんは送ってきてくださる。しかし私にはこの小説が好きになれなかった。でも正直にその感想は伝えらず、通りいっぺんの礼状で逃げていたかもしれなかった。李さんがお怒りになっていたのはここだろうか。だったらなにがよくないのかを書けばいいのに、それが私には出来なかった。大先輩だからというのは当然だとしても、問題はそこではない。
『伽倻子のために』の映画化で私は苦しんだ。小説で読めば、読者としての私は主人公のサンジユンの気持ちを追うことは出来る。しかし写せない。同じ日本語で書かれていても、この民族主体の異なる主人公に私はどんな根拠を持って向かい合おうとしているのか、いくら問いかけても答えが出てこなかった。
詩人の金時鐘さんは岩波ホールのパンフレットに、私のその手も足も出ない様を「日本人自身の哀しみの素顔」と題して書いて下さった。私が映画を撮ってもまだ分からなかったことを、そう表現して下さったのだ。その文章を読んだときのうれしさは今もはっきりと覚えている。
言葉は民族言語である。民族が異なれば言語が異なる。これが普通である。暮らしや文化、習俗とともに穏やかに育まれるものだろう。懐に抱かれるようにして。
しかしどの言葉を母語とするかは、その人の生まれや環境によって違ってくる。母語がかならずしも民族言語とは限らない。ましてそれが強いられてのことだったとしたら、事情は複雑にならざるを得ない。日帝時代の朝鮮半島がそうだったし、在日は在日で、在日することになるまでの経緯、生年など、幾つもの違いによってその日本語はそれぞれに入り組んで一様ではない。そこに私は簡単には踏み込めない。
ではこれが画像だったらどうだろうか。私は映画にも「映画言語」とも言うべきものがあると考えるから、その映画言語の獲得は、在日の「言葉」のように、繊細な違いを見せて折り曲がりもするのだろか。一般的には「いいえ」だろう。でもそうとも言い切れない。
かつて私は、「映画もまた民族言語である」と書いたことがある。映画はその誕生のときから、新しい世界語、世界に共通する言語である言われ続けてきた。そのことへの反発が私にはあった。その “世界”というのは、ヨーロッパ、アメリカのことを言っているだけではないか、と。この考えは今も大きくは変わっていない。民族言語というよりは、民族にさえ縛られない地方語としての世界性、と言ったほうがいいかもしれない。なぜなら映画の写すものはすべからく個別の事物だからである。誰しもがローカルであることで、繋がる。映画は「何が母語なのか?」を別な角度から問いかけていく機能がある、と言ってもいい。見ることで、私たちはこの世に「在る」ことを知る。見ることは一人ひとりひとりの眼によってなされるから「私」の行為であるけれど、その「私性」は、つねに慰撫されて何者かと繋がっている。
李恢成さんが、自死した金鶴泳を悼んで書いた「政治的な死」という短文が『可能性としての在日』(講談社文芸文庫)に収められている。
「在日二世作家としてのかれは、避けがたいものとして家庭を描き、なかんずく父との相克を取りあげた。だれだって、そうだ。かれのように、僕たち在日二世文学者は、家庭から出ていかねばならなかった。そこから人間の意味を探し、祖国に向き合っていく運命を共有していた。」
李さんも出発は私小説だった、と言っていいかもしれない。ただ、言われるところの日本の「私小説」とは違って、そこでの「私」は安定していない。内に閉じてもいない。「家庭」も「私」も政治に歴史に翻弄され続けて、否応もなく引き摺り回され、静まるときがないからだ。
李さんの初期の小説には、『またふたたびの道』『砧をうつ女』『伽倻子のために』も含めてそうだったが、その翻弄に堪えて、初々しいほどの抒情性があった。抒情とは、切なく痛く、ときに若干の甘さを併せ持つ。抒情は両刃の剣でもあるだろう。
『地上生活者』では、抒情と受け止められるような文面は慎重に避けられている。小説の主人公は、「ぼく愚哲(ウチョル)は」と書かれる。韜晦なのか戯画化なのか、通常の小説にあたる地の文と、「愚哲」のこころの声とが二重になりながら、ときに露悪的とも言えるような描写もそこに混じる。告白も含めて、これまでの李さんご自身とその周辺にあったこと、出会った人のいっさいが、洗いざらい白日の下に晒されていくかのようでもある。
私に問われているのは、私が手掛かりとしてきたかもしれない「日本の」「抒情」の質、なのだろうけれど、作家はここまで業を深めなくてはならないのかと、読んでいて辛くてならなかった。
次男によれば、病院に入ってもオモニに口述筆記をさせていたようだった。そのオモニも認知症が進み始めていると聞く。どれほどの恨を、悲憤を抱えて李さんは逝かれたのか。
私もそれなりの年齢になりました。あらためて映画の母語とはなにかを考えていきます。民族や国家、政治を超えて、求めず、ただ差し出すだけのような、静かな映画を撮れるように努力していきます。いずれまた話せる機会を作ってください。いっしょに温泉に入って頭に手拭いを乗せて笑い合ったこと、みんなで我が家の犬小屋を作ったこと、今は楽しかったことだけを思い出そうとしています。合掌。
小栗康平