小栗康平 手記
「埋もれ木」の上映と対談
2007/05/07
下記の催しが予定されています。大学内でのことですが、参加は自由とのことです。
日時: 2007年6月1日(金) 16時30分
場所: 慶応義塾大学日吉キャンパス来往舎シンポジウムスペース
第一部: 小栗康平監督最新作『埋もれ木』上映会 16時30分~18時30分
第二部: 対談「映画を見る眼と今を見る眼」 18時30分~19時30分
小栗康平(映画監督) 橋本順一教授(慶応義塾大学)
司会 小菅隼人(慶応義塾大学)
主催: 慶応義塾大学教養研究センター日吉行事企画委員会
問い合わせ先
hy-happ@adst.keio.ac.jp (現在は削除)
○ 以下はコラム転載のつづき、五回目です。
2006/8/29 タイトル リハビリ
知人が脳出血で倒れた。出血は脳の広い範囲にわたってしまっていたらしい。でも幸い手術が成功し、一命はとりとめた。その後もゆっくりではあるけれど回復して、先日リハビリセンターへと移った。
意識はずいぶんはっきりしてきたけれど、まだ正確ではない。脳に記憶の層のようなものがあるとすれば、そこを辿る順番がときどき乱れる。口にする事柄はじっさい過去にあったことではあるけれど、それが思わぬことと結び付く。私たちが夢を見ているときはこんなことなのかとも思う。
センターでは日に三回、それぞれに一時間以上かけて、言語と身体の訓練をする。意外なことに、ものを飲み込むという、もっとも簡単に思えるようなことがじつは難しい。なんとも危ういバランスの上で私たちは生きているのだと、つくづく思う。
半身が不随の状態だから、まだ自身で身体の中心を意識出来ない。台に寝かせてベルトを締め、その台を立てて人工的に立った状態をつくる。あるいは風船を手で突き合って、平衡感覚を刺激する。それらの機能回復のプログラムは、身体や意識の、いわば土台となるところから一つ一つ組み立て直していっているように、私には見える。
こうした一連の取り組みを患者と専門家がすべて一対一でやる。人が人に向かい合うことが基本なのだ。そんな様子を離れて見守りながら、ああ、なんでもそうだと胸が熱くなる。
私は、すでにある「私」というものを、誰かにその土台から組立て直してもらえるだろうかなどと、あらぬことを考えた。
2006/9/5 タイトル ケータイ
携帯電話の一般的な呼び名は「ケータイ」あるいは「ケイタイ」というところだろうか。きれいな言葉ではないが、いったんこれを持ってしまうと、なかなか離せなくなる。
便利さに隠れてこんなこともある。二年前のことである。
映画「埋もれ木」で主役を一般公募した。設定は女子高校生である。写真を添えて郵送というのがこれまでのやり方だが、御時勢だから当然メールでも受け付けた。短い作文を義務づけていたこともあってのことだったろうか、応募は予想に反して郵送の方が上回った。締めきりの二週間前で、その数はほぼ五千、もう少し増えないだろうかと相談したところ、友人があるケータイのサイトを紹介してくれた。
女子高校生がそのサイトに顔写真を送り、男の子たちが投票して毎月、ナンバーワンを決めるところだという。いささか怪しげだが、今の高校生は新聞など読んでいないのだからという意見もあって、ここに公募のお知らせを流してもらった。
効果はてきめんだった。一週間でなんと千件に近い応募があった。ケータイというパーソナルな道具を使い、「社会」を経由しないで集う、独自な仮想世界があるのだろう。そこに情報が届いたということになる。
この手の類いはきっと数多くあり、若年化した大人たちもそうした世界へと入って行っているに違いない。しかし問題はそこからどう「現実」へ戻ってくるか、である。公募は二次から面接になるが、このサイトからの応募者は、ほとんどが面接会場に来なかった。