小栗康平 手記
春分の日
2007/03/21
一月以来、ブログがぜんぜん更新されていないけれど生きてるのですか、と知人がいってきました。確かに、今年は一月に二回の書き込みをしただけでした。旧暦では二月十八日が春節、旧正月で、それまでにはなんとか自分も新しい年を始めなければなどと記して、もう今日は春分の日、旧暦でいっても二月の三日、あれあれ、です。ここで報告できることがなくて困っています。で、姑息なことを考えました。昔のものを使ってでも、このサイトはまだ死んでいませんと意思表示だけはしておこう、と。昨年の半年間、東京、中日新聞で、連載コラムをもちました。これが二十六回分あります。夕刊の掲載だったこともあって、読むことができなかったと何人かからいわれてもいましたので、これを分けて転載しようというものです。新聞社には許諾をとっていないのですが、たぶん大丈夫でしょう。一週間に一回、二回分をここに載せるとして、三ヶ月間はこのページも開いていることになります。そのうちにあたらしいことも書けるでしょう。
06/7/11の掲載 デジタル化
デジタル・カメラでの撮影は、現場でモニターをチェックする。いつも結果がそこに見えているから、考えようによっては大胆な試みも可能になる。フィルムは現像しなければ結果が分からないから、あとでしまった、とならないように、様々なことを予測し、慎重にもなる。どちらが創造的であるかは一概にはいえない。道具としてそれをどう使うかだろう。
でも習いとして、私たちはいったん見えてしまったものを、これは違うと否定しにくい。見えるということはものごとが具体を伴うことだから、その具体を退けてもう一度、抽象に向かうには力が要る。
デジタル化が社会のいたるところで進んでいる。デジタルは瞬時に立ち上がって瞬時に消える。尾を引かない。見えていること、見えているとき、だけが対象となりがちだ。
バブル経済がはじけて以降、こうした傾向がいっそう強くなった。目に見える数値ばかりをいじる世の中になったからだ。
ことには前後がある。ことの始まりと終わりがある。始まりの前にあって見えなくなったことを記憶し、終わりの先にある、まだ形をなさないものを想像することで、私たちは自身の思索を深める。目の前にあることだけを取り沙汰するのであれば、それはハウツウでしかない。
一方で、陰惨で、動機も分からないような事件が、男女の別なく頻発する。これはなんだろうか。
見えていることと、見えていないこととが繋がらなくなってしまった。映画はなにを見えるものとしているだろうか。
06/7/11 の掲載 麦秋
小津安二郎監督に『麦秋』という映画がある。麦秋とは麦を取り入れる季節のことで、それを麦の秋、というところがいい。響きもよく、好きな言葉の一つだ。
あたりが緑を濃くしていく時期に、麦だけが黄色く色づいて枯れていく。麦は寒冷地の作物である。それが夏を向かえる前に耕作されるのだから、日本という地は気候にめぐまれている。
私が生まれ育った北関東では、昔は二毛作だった。麦を取り入れた田が代掻きされて、そこに稲が植えられた。今は同じ田圃で麦と米を作るところを見かけない。麦の補助金がカットされて、農家がやつていけなくなったのだろう。
その分、といえるのかどうか、どこも田植えが早くなった。私の周辺では兼業農家が多いこともあり、五月の連休である。収穫は台風シーズンの前になった。品種もそのように改良されているらしい。
面積が少なくなったとはいえ、麦畑もところどころにある。収穫時期には稲も育っているので、黄と緑の対比がいっそううつくしくなった。段々畑でそうした光景に出会うと、うっとりとして車を止めてしまう。
しかし考えてみると、経済的な理由からこうしたことが起きているのであって、それを陶然と見ている私はなにか、ということになる。
先日、知り合いから挽きたての小麦粉が届いた。私がうどんを打つのを知っていて、味比べにと三種類の粉が入っていた。香りがあって、どれもうまい。これもいいとこ取りで、すまないと思うことしきりである。