小栗康平 手記
上毛新聞のコラム
2006/01/22
群馬県の地方紙、上毛新聞に「私の教育論」というコラムがあり、先週の日曜日、15日、ここに「映像教育で、新しい視点」を書きました。群馬県外の人は目にしにくいでしょうから、下記に転載します。
子供の命が奪われる事件が続いている。その一方で犯罪そのものが低年齢化し、凶悪化してもいる。加害者と被害者が同じコインの裏と表でともに息をひそめているかと思うとなんともやりきれない。
こうした事件や犯罪の背景を探ろうとするときに、バーチャル、仮想現実という言葉が度々報じられる。その論旨を簡単に言えば、アニメーションをはじめとして、映像という作られた世界で自己形成してきたことの歪み、ということになる。パソコンのゲームの中でなら、相手をやつけさえすればその対象は簡単に画面上から消えていく。血も流れず痛みもない。
しかし、そうであるとしても、その歪みを正すために今なにをしたらいいのかという発言は聞こえてこない。あるのは「いのち」の教育といった漠然とした抽象論だけだ。道徳とかしつけといったことに矮小化されることも多い。
ここには、大人たちは安全で正しく、子供たちだけが危険で危なっかしい、と考える誤解、欺瞞がある。映像が作られた世界だとしたら、それがどう作られていて、その虚構性はなにを根拠にして成立しているのかを、大人たち自身がなぜ知ろうとしないのだろうか。ひどいときには特定の一部の映像ソフトだけを槍玉に上げてことをおさめる。
私は一昨年から、群馬の先生方といっしょに「映像教育」の実現に向けて取り組んでいる。公教育で、教科としての「映像」を学習してほしいからだ。昨年は県の教育委員会によって二校の教育実践校が定められた。総合学習の時間を使って授業が可能になった。対象は小学校六年生である。一部の私学を除けば義務教育の中でのこうした実践は全国的にも初めてのことである。
前例がないからこの取り組みは手探りである。教育課程としてのカリキュラムもまだない。しかしだからこそ、教育に新しい視点を導入出来ると私は考える。数値化しえない教育の一端を担うものだとも思う。
ようやく途についたけれど、まだ多くの教育関係者にとっても、この取り組みの優先順位は高くない。このいそがしいときになにを物好きな、といったところが実感かもしれない。でも断じてそうではない。緊急かつ必須の取り組みである。
事件が起きると学校は安全を確保するためにと、まずは校門を固く閉ざす。地域でも監視の目を張り巡らそうと努力する。それはそれで必要なことではあるだろうけれど、本質的なことではない。地域に学校を開いてこそ、子供たちは豊かに育つ。映像の教育も学校内で完結することではない。