小栗康平 手記
スペインの映画祭、その後
2005/12/13
通訳をサポートして下さった、ヒホンの「スズキ」に勤める加藤圭子さんからメールが届きました。映画祭終了の翌日、各紙がいっせいに審査結果についての異議を表明し、そのなかで「埋もれ木」についても触れているのでお送りします、というものでした。それぞれの映画を見ていないのですから(私もそうですが)、その意見が果たして妥当なものかどうか、判断できませんが、映画祭、あるいは映画の評価は、このように割れる、いろいろあるという参考事例として転載します。「埋もれ木」の自慢ではありません。軽く読み流してください。
La Voz de Asturias (Marta Barbón) 2005年12月3日
”Ultranova”は第43回映画祭コンペ作品の最優秀作品ではない。それにも拘らず、8人の審査員が票を投じた(国際審査員5人とFIPRESCIの3人)。このベルギー映画のプレス用上映は拍手もなく終了したのだが、この作品が勝利したのは不思議だ。受賞作品の発表記者会見で、この映画の受賞はここ何年もなかったようなそっけなさで受けとめられた。しかし、もっと不思議なのは、審査員の説明の中で、この映画が、「ほとんど精神的な体験」と評されたことだ。受賞理由をよりよく説明していたのは、その美しい短編によりヒホン映画祭で受賞したJan Cvitkovic監督の言葉だろう。”Ultranova”には「記述するのが非常に難しい何か」がある、と語った。でも、私は、ヒホンで称賛や拍手を獲得する映画のそうした「何か」を記述することができる。例えば、”Be with me”の繊細な感動、”Pavee Lackeen” のおどろおどろしさのない過酷さ。また、「埋もれ木」の魅惑的な構成、さらには、“Dark horse”の楽しいシュールレアリズム。これらの作品は何も受賞しなかった。そして、”Crazy”は四つも。これは、クリスマスの宝くじではない、別の宝くじだ。
El Comercio(Paché Mareyo)2005年12月3日
もし、私たち皆が同じものを気に入るとするならば、違う色もなければ違う神様もいないことだろう。もし、皆が同じように感じるならば、この世の中は一夫多妻のたいそう望ましいところであることだろう。
でも、そうだとしても。”Ultranova”…? 審査の結果を見て、自分自身の感覚について自信がなくなったのは確かだ。でもそれは、じっくりと考えさせられるということにおいて、健全なよいことだし、新鮮さを蘇らせることでもある。生憎な事には、可能な限りの主観を排し、賞の理由を反芻した後、さらに悪いことには、考えに考えて、私の頭の中に、そうしたあれやこれやの何ら映画的でないものに対する一定の場所を用意してはみたものの、確信を持って言うが、映画また言葉の愛好家としての私の未熟な判断基準によれば、Bouli Lannersの映画は映画祭の最優秀作品には遠く、拙い作品のうちの一つである(大半はすばらしい作品だった)。
“Ultranova”は私たちに何を語りかけるだろうか。現代のヨーロッパに性急でない民族、大義を持たない人々がいるということ? 荒野は美しい風景だということ? ミニマリズムが存在するということ? しかしながら、本当に、私が問いたいのは、審査員は”Be with me”に何を見なかったのか、ということだ。感動させるだけではなく、ドキュメントとフィクションを組み合わせたスタイルを用い、その人物像は体に滲みこんでくる、これは”Ultranova”にはないことだ。受賞作の中に、なぜ“埋もれ木”のあの驚嘆すべき詩情が含まれていないのか。あるいは“Dark horse”、この作品は、人間ドラマを描くため、コメディーやシュールレアリズムを作り出している。そして最後に、もし審査員が好むのは、「より少ないものがより多い」ということであるならば、面白くて、売り上げのよかった”Crazy”に何故あんなにたくさんの賞を出したのだろうか。この映画は、”Ultranova”の断絶の対極にある。