小栗康平 手記
哀悼
2025/01/20
朝九時ちょうどに携帯が鳴った。知らない番号だったのでそのままにしていたら、留守番電話に音声が残った。開いてみると、李恢成さんの次男からだった。父が一昨日の午後、病院で亡くなりました。今日、家族葬で小さく、火葬場へ行きます、とあった。私は直ぐに折り返した。その日、私はたまたま東京にいた。どこへいけばいいかと尋ねると、私たちだけやりますので、と。出棺前にとにかく連絡だけはしようと電話をかけてくれたことが感じ取れたので、お別れに行けるようになったら教えてと言ってそのまま私は電話を切った。
それから十日間経った一月十五日、新聞で[李恢成さん死去]が報じられた。お別れの会のようなことはまだ書いてなかった。
連絡が次男からだったことには理由がある。李さんに息子が三人いる。長男は私の映画で二本、助監督についているけれど、『FОUJITA』の後、地方局のディレクターとして九州の方に行っている。アボジの近くにいるのは次男だけだ。
何年前になるだろうか、三年か四年かもっと前か、長くご無沙汰してしまっていたので、思い立って李さんに電話を入れてみた。奥さんが出られて、「今、話せるかどうか分かりませんが聞いてみます」と言われてしばし待っていると「はい」と不機嫌そうな声が聞こえてきた。小栗です、ご無沙汰してしまって申し訳ありません、と話し始めると「どちらのオグリさんでしょうか」と遮られた。李さん特有のアイロニーだろうと思ったけれど、その後もうまく話が続かない。なんだか意思疎通を欠いたまま気まずく電話を切ることになってしまった。
李さんには『伽倻子のために』を映画にさせていただいただけではなく、その後も公私ともに深くおつき合いさせてもらってきたと思っていたから、どうしてそんなことになってしまったのか、あれこれ考えた。
しばらくしてからだったが、葉書でお尋ねした。なにか失礼なことを私はしてしまっていたでしょうか、と。返事はなかった。
次男にどうなっているのか教えてほしいと連絡をとった。「原稿で手一杯で余裕がなくなっているのだと思います、オモニも認知症が始まっていろいろ大変で、すいません」ということだった。次男としてはそう戻すのが精一杯だったに違いない。
その“手一杯の原稿”は、おそらく二十年にわたって書き継いできている長編『地上生活者』で、第六部まですでに単行本になっている。出るたびに李さんは送ってきてくださる。しかし私にはこの小説が好きになれなかった。でも正直にその感想は伝えらず、通りいっぺんの礼状で逃げていたかもしれなかった。李さんがお怒りになっていたのはここだろうか。だったらなにがよくないのかを書けばいいのに、それが私には出来なかった。大先輩だからというのは当然だとしても、問題はそこではない。
『伽倻子のために』の映画化で私は苦しんだ。小説で読めば、読者としての私は主人公のサンジユンの気持ちを追うことは出来る。しかし写せない。同じ日本語で書かれていても、この民族主体の異なる主人公に私はどんな根拠を持って向かい合おうとしているのか、いくら問いかけても答えが出てこなかった。
詩人の金時鐘さんは岩波ホールのパンフレットに、私のその手も足も出ない様を「日本人自身の哀しみの素顔」と題して書いて下さった。私が映画を撮ってもまだ分からなかったことを、そう表現して下さったのだ。その文章を読んだときのうれしさは今もはっきりと覚えている。
言葉は民族言語である。民族が異なれば言語が異なる。これが普通である。暮らしや文化、習俗とともに穏やかに育まれるものだろう。懐に抱かれるようにして。
しかしどの言葉を母語とするかは、その人の生まれや環境によって違ってくる。母語がかならずしも民族言語とは限らない。ましてそれが強いられてのことだったとしたら、事情は複雑にならざるを得ない。日帝時代の朝鮮半島がそうだったし、在日は在日で、在日することになるまでの経緯、生年など、幾つもの違いによってその日本語はそれぞれに入り組んで一様ではない。そこに私は簡単には踏み込めない。
ではこれが画像だったらどうだろうか。私は映画にも「映画言語」とも言うべきものがあると考えるから、その映画言語の獲得は、在日の「言葉」のように、繊細な違いを見せて折り曲がりもするのだろか。一般的には「いいえ」だろう。でもそうとも言い切れない。
かつて私は、「映画もまた民族言語である」と書いたことがある。映画はその誕生のときから、新しい世界語、世界に共通する言語である言われ続けてきた。そのことへの反発が私にはあった。その “世界”というのは、ヨーロッパ、アメリカのことを言っているだけではないか、と。この考えは今も大きくは変わっていない。民族言語というよりは、民族にさえ縛られない地方語としての世界性、と言ったほうがいいかもしれない。なぜなら映画の写すものはすべからく個別の事物だからである。誰しもがローカルであることで、繋がる。映画は「何が母語なのか?」を別な角度から問いかけていく機能がある、と言ってもいい。見ることで、私たちはこの世に「在る」ことを知る。見ることは一人ひとりひとりの眼によってなされるから「私」の行為であるけれど、その「私性」は、つねに慰撫されて何者かと繋がっている。
李恢成さんが、自死した金鶴泳を悼んで書いた「政治的な死」という短文が『可能性としての在日』(講談社文芸文庫)に収められている。
「在日二世作家としてのかれは、避けがたいものとして家庭を描き、なかんずく父との相克を取りあげた。だれだって、そうだ。かれのように、僕たち在日二世文学者は、家庭から出ていかねばならなかった。そこから人間の意味を探し、祖国に向き合っていく運命を共有していた。」
李さんも出発は私小説だった、と言っていいかもしれない。ただ、言われるところの日本の「私小説」とは違って、そこでの「私」は安定していない。内に閉じてもいない。「家庭」も「私」も政治に歴史に翻弄され続けて、否応もなく引き摺り回され、静まるときがないからだ。
李さんの初期の小説には、『またふたたびの道』『砧をうつ女』『伽倻子のために』も含めてそうだったが、その翻弄に堪えて、初々しいほどの抒情性があった。抒情とは、切なく痛く、ときに若干の甘さを併せ持つ。抒情は両刃の剣でもあるだろう。
『地上生活者』では、抒情と受け止められるような文面は慎重に避けられている。小説の主人公は、「ぼく愚哲(ウチョル)は」と書かれる。韜晦なのか戯画化なのか、通常の小説にあたる地の文と、「愚哲」のこころの声とが二重になりながら、ときに露悪的とも言えるような描写もそこに混じる。告白も含めて、これまでの李さんご自身とその周辺にあったこと、出会った人のいっさいが、洗いざらい白日の下に晒されていくかのようでもある。
私に問われているのは、私が手掛かりとしてきたかもしれない「日本の」「抒情」の質、なのだろうけれど、作家はここまで業を深めなくてはならないのかと、読んでいて辛くてならなかった。
次男によれば、病院に入ってもオモニに口述筆記をさせていたようだった。そのオモニも認知症が進み始めていると聞く。どれほどの恨を、悲憤を抱えて李さんは逝かれたのか。
私もそれなりの年齢になりました。あらためて映画の母語とはなにかを考えていきます。民族や国家、政治を超えて、求めず、ただ差し出すだけのような、静かな映画を撮れるように努力していきます。いずれまた話せる機会を作ってください。いっしょに温泉に入って頭に手拭いを乗せて笑い合ったこと、みんなで我が家の犬小屋を作ったこと、今は楽しかったことだけを思い出そうとしています。合掌。
小栗康平
歴史の死を生きる
2024/12/26
『死の棘』の4Kレストアを終えた。今年は『伽倻子のために』『眠る男』に続けて『死の棘』まで三作品をやったことになる。旧作をいじってきただけの年になってしまったけれど、次の映画が進まないのだから致し方ない。レストアの作業は年月を経て痛んだ旧作を、亡くなった監督にかわって生き残っている関係者が資料を集めて修復することが多い。自身が元気なうちにそれが出来たのだから喜ばなくてはいけない。
この夏、久しぶりに神田の古本屋街をぶらぶらして、雑誌「新潮」の臨時増刊号が二冊並んでいるのを見つけて買い求めた。ともに小林秀雄特集で、一冊は昭和五十八年の追悼記念号、もう一冊は「百年のヒント」と題された生誕百年を記念したもので平成十三年に出たものだった。
雑誌という気安さもあって、この二冊を気の向くままに拾い読みしていくのは楽しかった。特集号で多くの人たちが語っている中に、ああ、そうか、そうだったと思い出すことも少なくなく、いくつもの箴言となって小林秀雄の言葉が私の中に残っていたことに自分でも驚いた。小林秀雄を全集で通読したことはなかったけれど、様々な機会に触発されて少なからず読んできてはいたようだった。この強い個性の人から影響を受け過ぎないようにと臆する気持ちがどこかにあって、そんな読み方になってしまっていたのかもしれない。
特集号の中でも何人かの人が触れていたけれど、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない。」の一文は、中でもよく知られているところだろう。世阿弥の能「当麻(たえま)」を観たあとに書かれたとされている短い文章の中の一節である。
私は追悼号の中の永井龍男の一文「くるるの音」にこころ打たれた。これまでまったく読んできてもいない作家なのだけれど。
小林秀雄が入院している間、ご負担をかけてはいけないと、お見舞いに行きたいのをじっと我慢して、様子は留守宅の奥さんや今日出海から聞くだけだった。ある日、新聞の朝刊で小林秀雄氏重態の短い記事を見つける。家にいても落ち着かず、午後になって表に出ると、足はおのずと小林家に進み、それでも小道の黒い鉄柵を開けることができず庭の中を覗き見るだけだった。
小林秀雄が亡くなって、老夫婦二人で暮らしている古い日本家屋の雨戸を閉めるくだりの描写がいい。「くるる」とは最後の雨戸が閉まると、戸締りのための桟が敷居の穴に落ちる、そういう古い仕掛けの総称らしい。「庭をひと眺めしてからこの『コトン』という微かな音を耳にするのは侘しいとも、淋しいとも云える。」とある。
私も「くるる」の「ことん」とした音に耳を澄ます歳になった。永井龍男のように思いやれる先達はいないのだけれど。
このところ話題になる新作の映画に私はいよいよ反応しなくなってきた。こっちに問題があるのかあっちにあるのかはよくは分からない。
小林秀雄流に言えば「花の美しさ」はあれこれと描けはするだろうけれど、「美しい花」は撮れていない、となるかもしれない。薄っぺらな現象は、いくらでも形容できるし、取り換えることもできる。
今は撮影所の現場で鍛え上げられて学んでいけるような制度はないので、大学院や専門学校のようなところに入って映画を「勉強して」いる人たちが少なくない。自学自習である。古今東西の名作はDVDで見放題だろうし、何度となく同じシーンを繰り返して見て、時に早送りもし、あるいは止めてショットの長さ、繋ぎのコマ数まで数える。ほとんどオタクと言いたくなるほど、世界中の(!)映画に詳しい。あの映画にこんなシーンがあり、こっちの映画にあんなシーンがあったというふうに、知的に分解して再構成する。そこには「言葉」が介在するから、当然、それなりの観念が出来上がる。その観念をもとにして、今ふうの気の利いたエピソードを散りばめて映画を作る。一見するといかにも洗練されていてオシャレにも見えるのだが、どこか腹立たしいほどにインチキだぞと、見ているこちらの「身体」が反応する。
自学自習は誰しもがやる。というよりそれしか学ぶ道はない。いつの世でもそうだ。ただ学ぶのは技術ではない。初見で、たった一回限りで、その映画の全体に向き合うためのなにか、をである。後のことは後のことで、そんなことはどうでもいい。家にテレビもなかった昭和三十年代の高校生の私には、それが精いっぱいだった。
今の映画に「歴史」を感じなくなった。部分を見過ぎて、全体を感じる力が弱まってしまったからだろう。生死はいつも全体の中に一つとしてある。私たちは死を生きることは出来ないけれど、歴史の死を今の生として生き直すことは出来る。
韓国の作家、ハン・ガン(韓江)さんの小説『少年が来る』と『別れを告げない』二作を読んだ。とてもよかった。二作ともまさに歴史の死を生きようとした作品である。こうしたものを読むと、自身の体たらくを含めて、映画はすでに他の表現からすっかり置いていかれてしまったのではないかとさえ思う。私たちが思っている以上に。
『少年が来る』は一九八〇年の軍政時代の「光州事件」を題材とし、『別れを告げない』は一九四八年の済州島「四・三事件」を振り返ったものだ。ともに韓国の凄惨な現代史の一断面である。
『少年が来る』の書き出しは「雨が降りそうだ。君は声に出してつぶやく」と始まる。一行ずつ行替えして、「君」と呼びかけて、これから書き手が造形しようとしている人物との距離を慎重に測っていく。セリフは鉤かっこで括られていない。(この文では、引用になるので鉤かっこをいれている。)
「君」トンホは中学三年生、遺体を先頭にして進む隊列の先頭の方に友達といた。友達のチョンデは、その姉さんと一緒にトンホの家に間借りしている同じ年の少年である。銃声が鳴って「チョンデがわき腹に銃弾を受けるのまで見た」君は「修羅場の中で、チョンデの手を離した」。君は夥しい死体の一つひとつ確認しながら友達を探し回る。「生きている人が死んだ人をのぞき込むとき、死んだ人の魂もそばで一緒に自分の顔を覗きこんでいるんじゃないかな」とつぶやきながら。
母さんが呼びに来る。「家に帰ろうよ。」「門が閉まったら僕も家に帰るからね。」「きっとそうするのよ、暗くなる前に帰ってらっしゃい。みんなで夕ご飯を食べようね。」
次の章は死んだチョンデの、ゆらゆらしている魂のモノローグだ。「姉ちゃんの居る所へ行こう。」「君の居るところへ行こう。」夜明けに「一度に数先発の花火を打ち上げるような爆薬の破裂音。(中略)驚いた魂たちが体からどっと飛び出す気配。そのとき君は死んだんだ。チョンデの魂がトンホの死に気づく。」現実と非現実とが痛ましく、正確に交差する瞬間だ。
第三章のタイトルは「七つのビンタ」。生き延びたトンホの姉が今は出版社で編集の仕事をしている。検閲局でリンチにあう。反体制作家の居場所を知らないと言い続けたからだ。頬に血が滲み青あざが出来るまで七回、ビンタを受ける。その七つのビンタを「一日に一つずつ、一週間かけて忘れるのだ」と書き進められていく。その徹底した非暴力の姿勢が際立って美しい。
圧巻は第六章の「花が咲いている方に」で、トンホたちの母の一人語りである。それぞれがそれぞれを思いやりながら人は現実には引き裂かれていく。言葉はその悲痛を縦横に行き来し、語り手が変わるたびに、作品世界が新たな表情をして立ち上がってくる。
ところがここでは終わらない。「エピローグ/雪に見覆われたランプ」で、ハンさん自身が九歳まで暮らした光州の記憶をたどり、この小説がどのようにして形作られているかを示すのだ。なによりも伝わるために、が最優先されている。見栄もケレンもない。ただ誠実である。
私は『伽倻子のために』の準備を始めた一九八二年に何人かのスタッフとともに初めて韓国を訪ねた。ソウルから全羅道、プサンと回って済州島までの二週間近い旅だった。その折に光州市に寄った。市庁舎には数多くの弾痕のあとがまだはっきりと見て取れた。
イ・チャンドン監督に『ペパーミント・キャンディ』という作品がある。光州事件を題材とした最初の映画である。二〇〇〇年の公開で、金泳三の文民政権が誕生したのが九三年のことだから、軍政が解けてから比較的早くに出来た映画である。イ監督は八十年代に大邸で高校の教師をしながら戯曲を書いていた。新劇が反体制のよりどころとなっていたころだ。監督作品としてはこれが第二作目となる。NHKがこの映画に共同出資している。
映画『ペパーミント・キャンディ』はラストシーンから始まり、キム・ヨンホの若い兵役時代に遡って終わる。なぜか師団の勲章を外せと突然の命令が下り、鎮圧に出動する。戒厳令下に一人家に帰り損ねた女子学生と遭遇してしまう。キムは「行け、早く行け」と指図するが、女子学生は怖くて動けない。隊員たちが後方から迫ってくる。仕方なく空に向かって銃を撃つが、慣れていない。その何発かの一つがあるいは女子学生に当ったかもしれない。そうしたことがあってのことだったかはわからない。キムはその後、警察官の職に就く。加害者の側に回ったのだ。しかし人生は壊れていくばかりだ。
この映画を『少年が来る』と比べてみると、映画と小説との違いがよく分かる。映画はどんな場面でも現在形として見られるものだから、時間が遡って描かれる『ペパーミント・キャンディ』は、設定としては原理矛盾である。列車の走る線路、道路の車が逆回転で示されたりして時間がそこで巻き戻されている説明はされるけれど、せっかくのいいエピソードが次第に謎解きに落ちていくようにも感じられて、切実さを欠いていく。
小説に書かれた言葉は記号だから単独では時間を持たない。逆に言えば、どんな組み合わせでも架空の流れを作り出せる。それが果たして時間と言っていいものかどうかは、読むものがそれぞれで判断することになる。
一方、身体を通して発せられる言葉はそうはいかない。映画はなにごとも見えるものにしていく。妙な言い回しになってしまうけれど、他者化する。外形に置き換えていく。関係性のなかで理解しようとする。映画がそこで「物語」を求めてくる。ここが面倒である。
例えば警察官たちが自白を迫って拷問する。次の場面がクラブかキャバレーになってサックスが吹かれ、警察官たちは女たちと騒ぐ。こういういささか卑しいと言っては語弊があるが、常套的な運びが映画では喜ばれるのだ。
『少年が来る』の錯綜した構成を、私たちは物語としては読んでいない。映画は受苦のままに徹しきれないのだ。劇として、暴力を見たがるのだ。表現が内的なままに、非暴力に徹するのはよほど困難である。いや拷問や虐待などでなくてもいい。そもそも映画は、動きながら、動くものとして在りながら、一定の静けさを保つことが上手くいかないのだ。人物たちが、ものが、あるいはその相互が、フレームにどう写っているか、その位置関係だけで「世界」を感じ取ることができるというのに、である。
『伽倻子のために』は四十年ほど前の作品である。その中で主人公のイム・サンジュンに、留学同(在日本朝鮮留学生同盟)の若い女性、明姫が「四・三事件」のことを語る場面がある。「わたしは密航船で渡ったの……四十九年に日本に……本当は私もオモニと一緒に殺されるはずだった……パルチザンの出た家は全員が処刑されたのですもの……納屋で私を見つけた警官が私を見て見ぬふりをしたのよ、子供で女だったから。」
映画の中で八万人が殺されたと言っているけれど、当時のどの資料に寄ったのか、今は確かめられない。今もって死者の数はよく分かっていない。
在日は済州島出身者が多い。私の身近な市井の人たちの中にも幾人かいたが、凄惨を極めた「四・三事件」については決して口にしなかった。詩人のキム・シジョン(金時鐘)さんは、アボジが手配してくれた密航船で木浦から渡ってきている。そのキム・シジョンさんが近頃、両親のお墓が移されることになって奥さんと済州島を訪ねている。新聞記者が同行したその記事を私は読んだ。お茶の一杯も差し上げることが出来なかったと常々自らを責めてきたシジョンさんが「またとはそばを離れません」と墓に首を垂れている写真もあった。
『別れを告げない』は、小説としての個性をいっそう極めている。恐ろしいほどに構成はシンプルである。
私、キョンハは夢を見る。野原に墓碑と見まがう何千本もの黒い丸木が植えられている。線路の枕木ほどの幅で、それがやや傾いたり曲がったりして「まるで何千人もの男、女、やせた子供らが肩をすぼめてうずくまり、雪をかぶっているようだった。」「地平線と思った野原の果ては、海だった。」「そこに潮が満ちてくる。(私は)黒い木々の間を、いつしか膝まで満ちてきた水をかき分けて走った。」
その夢を見たのは、「私があの都市で起きた虐殺に関する本(『少年が来る』)を出してから二カ月近く経ったころだった。」その後、個人的にも多くの別れを経験する。「すべてが壊れはじめたのはどこだったのか。いつが分かれ道だったのか。どのすき間と節目が臨界点だったのか。」
生きたいから、あなたから離れる。
生きている人間らしく生きたいから。
これが創作の原点である。そのようにして「四・三事件」の資料を読み始める。「ぐっすりとは眠れ」なくなり、「いまだにまともに食べられなかった」。そんなときに、友人、インソンからのメッセージを携帯で受け取る。「キョンハ、すぐ来てくれる?」
大学を卒業して「私」は雑誌社に入社して記事を書き、重要な取材のときに一緒に行ってくれた写真記者がインソンだ。しかし今はソウルにはいない。済州島で木工をしていたはずだった。だからかつて「私」は夢の話をインソンに語ったのだ。インソンは「やろう」と言った。「墓を作って映画にしてもいい」と。でもその後、キョンハは夢の話はなかったことにして、「あれは私の勘違いだった」と告げるけれど、インソンは墓の木工を続けていた。
そのインソンがソウルの病院にいる。「すぐ来てくれる?」以外に説明はない。木工で指を飛ばして、飛行機に乗って奇跡のようにこの病院までたどりついたのだ。縫合手術は成功したが、三分に一度、その縫合箇所に針を刺して血を出さないと神経が死んでしまうらしい。そのインソンのキョンハへの頼みは、「すぐに済州島に行って小鳥に水をやってほしい」だった。死んでしまうから。
キョンハは済州島に行く。雪の飛行場に降り立ち、数少ないバスを乗り継いで、決死行のようにしてインソンの工場にたどり着く。この二人の、絶体絶命の中で「四・三事件」が姿を現し始める。インソンの両親がその体験者だった。語れないことを、決して語り切れはしないことを、インソンが影絵のようにして語り始める。インソンの魂がキョンハに寄り添うようにして木工の工場にいる。なにが夢でなにがまぼろしなのか、もう問うすべもない。
言葉は記号で、事物を指し示すための約束事である。しかしその約束が、一人ひとりのなかでどんな約束と結びついているかは定かではない。ハン・ガンさんはそこを探る。絵文字まで交えて携帯でやり取りされるその同じ言葉を使ってでも、私たちは再生する。再生される。映画もそのように蘇ることが出来るだろうか。
よい年をお迎えください。
型どおりの挨拶ですが、年々、心底そう申し上げたくなってきています。
小栗康平
時間に触れる
2024/06/10
パソコンの奥に隠れていた文章が出てきた。何年か前のものだ。
「東の空を黒い雲が高々と覆っていて、月が雲間に隠れたり現れたりしている。動きが早い。西の空は一面に大きく夕焼けていて、薄雲を横に長く浮かせている。その下にさらに、遠くに連山を見るかのような雲がもう一つ形づくられていて、空の表情は尽きない。
暮れる間際の日の移ろいを受け止めて、見えるものが刻一刻とその見え方を変えていく。沢沿いの黄色く色づき始めた田、その上の段は捨て去られた休耕田で、そこはすでに闇をまとっている。木立のひと群れ、その向こうに一軒の人家が見える。ただそれだけの視野なのに、その画角の中で多くを語ってくる。
細い道から舗装された通りに出るとそこが坂道になっていて、両側の白いガードレールに天空の明るさが落ちて、ことさらに白く浮き立つ。不意にランニングの人が現れて、行き過ぎた。ライトを点けた車が道路の脇に寄って止まる。後ろからもう一台、軽トラックが来ていたのだ。
西へと降りる道は木々が両側から覆いかぶさっているので、下の路面だけが夕日を受けて赤い。左に折れて墓地のあたりを過ぎると、道は緩やかにカーブして登っていく。開拓で拓かれたと思える台地が畑から宅地に変わったのは、ここ十年ほどのことだったろうか。
暖かい風が頬をなぶる。暮れ際のうすぼんやりとした闇の中で、家の白い壁面が落ち着き払って静もっている。収穫を終えた畑の土が黄土色よりさらに黄に転んで大きな面として広がるふうで、なんだかとても気持ちがいい。さらに暮れて来て、数少ない街灯の下を行き過ぎると、自分の黒い大きな影に驚かされる。私はやがて小径の暗闇にまぎれて見えなくなる。」
地方の片田舎での散歩である。小さな里山のへりに当る辺りに移り住んでもう三十年からになる。「秋の十五夜までもう何日かという半月(はんげつ)を少し過ぎた頃」と注があった。台風が近づいていた。
私は携帯電話のカメラで撮りながら歩いたのだ。普段はもちろんそんなことはやらない。携帯で写真を撮ることはあってもムービーにしては撮らない。
気持ちとしては風景の中に人物を置いて甘やかな空気を受けとめようとしたものだったと思う。人物(私)の後姿をフルショットで入れ込んだ広めの画の、ゆっくりとした手持ち撮影のつもりである。しかし歩いている自分を一人でそうは撮れないから、携帯を胸の前に突き出して前方をただ撮っていっただけである。それでも私は、間違ってもカメラは人物の正面には回らない、後姿であり続けなくてはいけない、などとまだ思っていたはずである。
順番が逆になるけれど、これをシナリオのように言葉にしたらどう伝わるだろうかと書き留めたものがこれである。読み直して、今これを例えばワンショットで撮ったとしてどこまでが写っただろうかと考えた。意外と難しそうだ。やってみなくては分からないが正直なところだ。ここにあるのはモノローグばかりでダイヤローグはない。劇の発端もない。だからと言ってことさらな対立や葛藤を求める気は起こってこない。
白川静さんの『漢字 生い立ちとその背景』(岩波新書、28頁)に次のような文章がある。
「人々は風土のなかに生まれ、その風気を受け、風俗に従い、その中に生きた。それらはすべて『与えられたもの』であった。風気・風貌・風格のように、人格に関し、個人的と考えられるものさえ、みな風の字をそえてよばれるのは、風がそのすべてを規定すると考えられたからである。自然の生命力が、最も普遍的な形でその存在を人々に意識させるもの、それが風であった。人々は風を自然の息吹であり、神のおとずれであると考えたのである。」
この章の冒頭に「ことばの終わりの時代に、神話があった。そして神話は、古代の文字の形象のうちにも、そのおもかげをとどめた。」とある。ことばの終わりの時代とは、漢字が発明される前と理解していいだろうか。「そこでは、人々もまた自然の一部でなければならなかった。」と続く。
ここが大事なところなのだろう。「自然の一部」とは、私たちが頭でもっともらしく口にしている「環境」の概念には収まらない。主従が違う。否応もなく、私たちは自然の一部でしかないと言うことだ。古代文字から現在のそれに変わって神話も消えた。風のそよぎに神のおとずれを見なくなった。
撮影は他者を撮る。被写体を対象化しないことには光がレンズを通過しない。ここですでに私たちは自然と離れている。対象とすることで彼我の距離が生まれ、初めてものが写る。しかしその距離があることで、形あるもの、事物の奥に潜んで流れているに時間に、映画は直接に触れることができる。上手くいけば、だが。
直接に、が可能なのは、カメラが器械だからだ。人の言葉として対象を同定しなくてもものは写る。同定しないからこそ、形象の見つめを通して、結果として映画固有の時間が浮かび上がる。普段の人間の眼では見えていない時間である。そこが映画の不思議である。
ここに簡単に書いてしまうようなことではないけれど、大事なことにつながっていくので、触れてみたい。
五十年以上も前に好きだった人と再開するチャンスがあった。知り合いの編集者が出入りしていたジャズバーのオーナーがその人といとこ同士で、なんの弾みかその人も私に会いたがっていると伝わってきたのだ。
電話が繋がり、私は保土ヶ谷駅まで出向いた。改札口での待ち合わせだったけれど、その人はマスクを外してじっと正面を見ていた。まだパンデミックの時だった。半世紀以上も過ぎて、好きだった人の顔をそこに認めた時に、私は、ああ、人間とはやっぱり孤独なんだと思った。どうしてそう思ったのかは分からない。
お会いして積もる話もし、その後、食事も何回かご一緒した。二人が今さらどうにかなることでもなく、どんなふうに夫を亡くしたのかなどまで話は飛んで尽きなかった。長い年月を私もまた等しく過ごしていたのだ。
まったく別な日のことである。その人と何の関連もなくただ食器の洗い物をしていて、私は突然こう思った。ああ、あの人もこうやって食器を洗って長い時間を生きてきたのだ。人生はドラマじゃない、この皿の手触り、水の流れる感触を通じて感じられるものだ、と。
年齢が行くと若い時よりも「もの」に目が行くように感じられる。机の上のなんでもない鉛筆削りをじっと見ていたりする。
その一方で書庫のさして多くはない書籍が乱雑に積まれているさまを見て、いったい自分はここからどんな言葉をもらって、その言葉はこの先どうなっていくのかなどと考え、呆然としたりする。
なんだか言葉が事物から離れていく。事物の方が残る。こんなことでいいのかどうか、わからない。呆けては困るけれど、老いは事物を見つめる映画の時間でこそ掬えるのではないかと夢想する。