小栗康平 手記

「小さな映画」

2024/02/20

昨年末に佐伯剛さんからメールをいただいた。忘年会と称する呑み会で前田英樹さんたちと会った二、三日後のことである。
「おはようございます。面白いことを発見しました。ビクトル・エリセは「ミツバチのささやき」が一九七三年、「エル・スール」が一九八二年、「マルメロの陽光」が一九九二年なのでビクトル・エリセも十年で一本ずつ。今回でようやく四作品目。小栗さんは「死の棘」が一九九〇年で「眠る男」が一九九六年で、この間隔は短いですが、その後の「埋もれ木」が二〇〇五年、「FOUJITA」が二〇一五年ですから「眠る男」からの三本はエリセと同じく十年ごとですね。そしてエリセより多い六本。すごい(笑)
エリセは、三本の次が三十一年ぶりですが、そこまで余裕をもって欲しくはないですが、焦る必要はないですね。」
エリセの新作「瞳をとじて」が近々公開になる、そんな話が佐伯さんからあったからだったのだろう。エリセと比べて論じられてはこちらも笑うしかないのだけれど、そうやって私の気持ちを後押ししてくださる友情はなんともうれしい。
このメンバーで呑むと話の最後はどうしても次の映画はどうするのですか、となる。雑談がここまで来ないとお開きにならないのだ。前田さんのお好きな「雪の茅舎」の一升瓶は空になっている。その夜も「小さな映画にする」が話になった。
その夜もというのは、このところ話の向きがいつも決まってそっちに向いてしまうからだ。小さなとは題材も予算規模も、である。この二つ、当然ながら切り離せない。分かりやすいところから考えれば、撮影場所を限定してあちこちに動かないこと。人物の出入りも少なくする、である。やむに已まれず、ではあるけれど、積極的な手法とする考え方だってあるはずである。
観世寿夫が『心より心に伝ふる花』の中の「「芭蕉」と禅竹」でこう記している。
「何か舌足らずで誤解をまねく恐れを感じるのですが、世阿弥や禅竹は能作の上で表面的な筋の葛藤の虚しさを感じてしまったのではないだろうか、そこで事件の経過や発展には豪末も重きを置かない抽象的な手法を夢幻能の形で創りだしたと考えられる。」
誤解をまねくかもしれないと留保する心づかいは大事にしなくてはならないとしても、「豪末も重きを置かない」と言い切ってしまいたい気持ちは今の映画界をみればまったくそのままである。

前田さんは二十分程度の短編をいくつかつなぐようなものでもいいのではないかと、ご自分で書かれた「畸人」の思想(その一・二)という文章を以前に持ってきてくださったことがあった。保田與重郎が昭和三十九年に新潮社から出した『現代奇人伝』を評したものである。有名無名の市井の人の評伝、交遊録で、映画になるエピソードがたくさん詰まっていますからと渡されたのだ。一篇が描く長さと深さがとてもいいものだった。物語なるものが動き始める前に話は切り上げられる。
前田さんが『現代畸人伝』の一つの頂を成すと紹介している個所をこの後に孫引きする。恥ずかしい話だがその畸人、前田普羅なる俳人を私は知らなかった。保田の桜井の町の家に普羅が遊びに来て、色紙や短冊に句をしたためる。「秋風の吹き来る方(かた)へ帰るなり」。「月さすや沈みてありし水中花」、こちらは保田が所望したもののようである。普羅は関東大震災で東京を引き払って越後に住んだ。老妻に先立たれたあと都営か何かの簡易住宅で死を待った、と保田は書いている。普羅が帰ると言うので保田が駅まで送っていったときの描写である。

「四辻の角には五十年近いまえから理髪屋がある。そこで少し道は曲がっているのだが、曲がりがてらにその店の鏡をふと見ると、一人とぼとぼと歩いていく、絵で見るように侘しい人の姿だった。しかもその後からまた異様な侘姿がぼそぼそとついてゆく。先が普羅さん後が自分ということに気づく瞬間を、私は遠い遠い時代をへてきたようにおもった。それは将睡時の夢の時間に似ていた。」

送って別れて家の座敷へ坐って、保田は秋風の句を口吟して泪をぽろぽろとこぼす。前田さんはそこにこう続けている。「鏡に映った瞬間、保田は、言うなれば、そこに久遠のこの時を視たのであろう。鏡がこれを視させた。現身のはるか下の方で、この今もゆき続ける時の流れが在る。普羅さんは、今日また、その流れの底へ帰るのか。」
いかにも見事な画像である。現在と過去とが重なって、そこにあることがくっきりと分かる。しかしこれが撮れない。映画では撮れない。「流れの底」が写らない。見えていることのサイズが違うのだ。あくまで文学が捉える描写である。「書く人の内深くにある寂寞とした祈りが響く」(前田)ばかりである。
「傑出した批評眼の孤独を、これほどまで生々しく感じさせ(中略)他人への優しく濃やかな筆遣いは、そのまま不気味な霊異の闇に入り込み(中略)近代小説のはるか上位に立つ批評の文学の威力」と前田さんは書いている。
その「畸人」の思想が本の後半に入って『保田與重郎の文学』という大著が昨春、上梓された。三十七章、八百ページに近い。時勢から言えば尋常ならざる本である。ここまで保田の全貌を論じた本はない。この大著、読みこなすにはまだまだ時間がかかる。
私は保田のデビュー作となった『日本の橋』を学生時代に読んだ程度で「芭蕉」も戦後の「日本に祈る」「絶対平和論」も未だ手付かずである。私に力がないから前田さんの提案はお流れになり、また「小さな映画」を探すことになる。

「FOUJITA」の照明技師をやってくれた津嘉山誠さんは、若いころ農村で何百頭もの牛の世話をしたり、小川伸介プロで山形の合宿生活を経験されたりもしてきたらしい。不思議なやさしさをもった人で、世田谷の住まいのテラスには野良猫やアライグマたちが集まってきているそうである。
会えばいつも、監督、早く撮りましょうよ、である。撮ってもなあ、小屋があかないよ、と言うと、ネットフリックスではだめですか、と聞かれる。確かにそういう流れが世界的にもなってきている。ネットフリックスの日本事務所が出来て間もないころに一度、訪ねたことがある。日本の代表者がアメリカ人で、その奥さんが「FOUJITA」の製作をしてくださった井上和子さんの大学の後輩、よく知っている人だった。いわば井上さんと私は二人して表敬訪問したのである。その後、井上さんがその奥さんをお呼びして一席を持ってくれた。オウム真理教をやれないでしょうかと逆に提案もされたのだけれど、私は具体的にはなにも動かなかった。
ネットフリックスよりもNHKはどうだろうか、ラジオ深夜便ならぬ映画深夜便、と私。出演はしたことはあるけれど、実際に番組を聞いたことはない。年配者が深夜なのか明け方なのかは分からないけれどよく聞いているらしい。老いをテーマにして短編を続けていく。面白いと思います、私がいい俳優さんをリストアップします、と津嘉山さん。その津嘉山さんからは後日にメールがあって、いいと思っていた俳優さんはもうみんな亡くなっていました、だった。この企画、いまだ提案にも至っていない。

佐伯さんはご自分でも書籍の出版をされているので、流通の仕組みをよく知っている。それがあまりにもひどいもので、ほとほと嫌になって今は直販されている。映画は書籍の製作と比べて額が一桁も二桁も違うから書籍とはまた別な、呆れかえるような慣習が配給、宣伝の流通部門でまかり通っている。外資系のシネコンも入ってきてはいるけれど、大手の興行では旧態然として独占禁止法に触れるような圧力もかかっている。
カンヌで映画祭の期間中にどれほど優れたパブリシストをつかまえられるかが勝負なんです、といった話を聞いたことがある。パブリシストとは平たく言えば広報担当者のことで、メディアとキーパーソンとをつなぐ人らしい。プレスリリース程度のものは書くのだろうけれど、批評家ではない。要は人脈を持った人ということになる。カンヌではそうした人に何百万円のギャラを支払うという。日本でも新作の試写の呼び込みはそうした人たちがやる。試写室の入り口で見張っていて悪口しか書かないような奴が来たら、お前は見たいのなら金を払ってみろ、と私などは言って追い返してみたいのだが、もちろんそんなことはできていない。「FOUJITA」のときにこれもNHKなのだが、「ブラタモリ」という人気番組があって、なんとかそこに取り上げてもらってタモリにぶらぶらしてもらえないものかと画策したらしい。当然のことながら成立はしない。そんなことまでして映画を公開までもっていく。冷静に考えてみると常軌を逸しているとも言えなくもない。どれだけパブリシティが多く出たか、それを「露出」という。宣伝費のない映画はそこが頼りだ。しかしそのパブに今どれだけの書き手がいるのか。だったら極小の規模で映画を作る、国際映画祭なるものも劣化していきているのだから当てにしない。自前で見せたい人だけに、見てほしい人だけに、と考えるのは横暴だろうか。

「死の棘」の冒頭のカットとラストのカットは、ともにミホとトシオが正面を向いている。でも光はまったく別な作られ方をしていましたと津嘉山さんが発言されて、そこにかさいあさこさんという方がいらっしゃった。「根の水」という詩集を自費出版されて私もそれをいただいている。北千住での私の特集上映まで、映画は佐藤真の「阿賀に生きる」しか見ていなかったらしく、「伽倻子のために」を見て「かなしくて、うつくしくて、かなしくて、まいりました」とメールを下さった人だ。
津嘉山さんが指摘していた同じところを文芸評論家の佐藤泰正さんが新聞に映画批評として書いてくれていた。二人は正面を向いているけれどラストのそれは祭壇に向かっている、と。原作者の島尾敏雄さんも「死の棘」で信仰のことについてはなにも触れていない。しかしキリスト者になってからまとめられた小説である。なんとか祈りの一端には触れてみたいと思っていたけれど果たせることではなかった。
病院でミホがいなくなってしまって、死んではいないかとトシオが病院裏の貯水槽を竿でかき回すロングショットがある。夜間である。ここは神の広場として撮りたい、そんなことをスタッフに言ったことはあった。でも映画で信仰に触れられた感触はなかった。それを当の本人が思いもしなかったところから、祭壇とおっしゃって下さったのだ。かさいさんがそれをぜひ読みたいという。佐藤さんは梅光大学院におられたので山口の地方紙だったと思います、今はもう手に入らないかもしれないけれど、スクラップが残っていたと思うので帰ったら探してみますといってそのままになってしまっていたら、そのかさいさんから「佐藤泰正著作集 十二巻」を古書で見つけ出したらそこに「映画「死の棘」を観て」という一文が収録されていましたとメールが来た。でも初出は毎日新聞で、祭壇という言葉そのものは使われていなかったけれど、もう十分です、ありがとうございました、お手を煩わせないでくださいとある。かさいさんはキリスト者かもしれない。
 私は私で、そうかなあと半信半疑なまま、スクラップをひっくり返してみたが、探し物は出てこない。滑った転んだを含めて有象無象のパブなるものが山のごとくにあった。こんな言い方をしては叱られてしまうけれど、それらも今となってはごみの山である。公開当時というのはこんなふうにあれこれと引きずり回されていたのかと、改めて映画の仕組みの怖さを思った。
 結局、肝心の地方紙は出てこなかったのだけれど、佐藤さんから頂いた手紙が出てきて、なんと私は佐藤さんの大学に呼ばれて講演をしていたのだ。もしかしたら食事なりの席で話が「死の棘」に及んで、佐藤さんから祭壇の発言があったのかもしれない。それを時が経るとともに毎日のそれに私が勝手に繋いで捏造していたことになる。人の記憶は当てにならない。

さてここからがエリセの「瞳をとじて」の感想である。大いなる期待をもって見たのだが、残念ながら拍子抜けするほど想像していたものとは違っていた。私の期待はどんなだったのか。
「ミツバチのささやき」の直截さは今もって忘れ難い。少女アナが村に来た移動映画で「フランケンシュタイン」を見る。アナが見た初めて映画だったのだろう。虚構と現実とがないまぜになって、アナの内で世界なるものが形作られていく。スペインでの内戦の傷跡らしきものがアナの家庭にもある。兵士が一人逃れてきてアナが助けるけれど、射殺されたようでもある。家の佇まい、路地、荒れ地、じつに端正な画像だった。
その監督が三十何年もして長編の映画を撮った。私はエリセがどんな思索を深めてくれたのかと楽しみにしていたのだ。古井由吉さんの最晩年の作品のように、モノローグがいつしか時制を変えていて、モノローグもダイヤローグに置き換わっている、そんなふうなもの。でもエリセの映画はただの会話の劇だった。
元映画監督(この言い方は他人事ではない)が撮影途中で失踪してしまった俳優を探す話である。その中断してしまった撮影以来、映画監督から退いて、その後は小説も書いたりしたようだけれどそれも売れたふうでもなく、今は雑文を書いたりしているらしい。その元監督がテレビの「未解決事件」という番組に出る。俳優は何故いなくなったのか、失踪当時は海への投身自殺という説もあったようだけれど遺体は上がっていない。真相を追いかけたいという思いもあったのだろうけれど、テレビ出演の動機はそこで使われる映画の部分使用、その二次利用料が入るからだ。些か自虐的である。
「未解決事件」がオンエアになって、見た人からその俳優によく似た人がうちの老人看護施設にいると連絡がある。それをきっかけとして過去、現在がさまざまに付き合わされていくのだけれど、俳優は何故いなくなったのかは分からない。施設に運ばれてきたときには記憶を喪失していたからだ。元監督は未完のその映画を見せる。それで記憶が戻ることを信じて、である。
そうやって映画は話そのものを追っていくことになるから、場面、場面でいったいどこで話を切り上げるのかと心配になる。切り上げられないからそれぞれのシークェンスはフェードアウトされていく。小津さん(小津安二郎監督)はそうしたやり方を小手先の技術であって映画の誤魔化しだと嫌った。
ショットはその切れ際、フレームの切れ際、終わりの切れ際、つまりはそのショットの時間の切れ際と、次に来るショットの空間と時間との接触、つながり方にこそ、映画言語のなんたるかが潜んでいるのではないかと私は考える。
少女アナを演じたその人がアナという役名でそのまま出演している。「私はアナよ」と「ミツバチのささやき」と同じセリフもあった。私は映画フリークではないから映画内映画のどれとどれとが関連してなどといったことを探る愉しみをもたない。

話は変わる。昨年、久しぶりに岸部一徳と会って飯を食った。タイガースのメンバーが集まってジュリーの七十五歳(!)の誕生日コンサートを埼玉アリーナでやるのだという。埼玉アリーナは三万人ほど入るのだけれど、前回、ここでのコンサートをジュリーはドタキャンしたらしい。約束と違ってチケットが半分しか売れていなかったからだそうだ。そのリベンジもあって少しでも応援できればと、インタビュー嫌いの岸部が週刊朝日のロングインタビューを受けた。廃刊までの最終三号連続のそれである。
タイガースとしてはもうこれが最後になると思いますと言うので、だったら見せてよ、というと、本当来ますか、だったら席を取りますよと言って、ボックス席を一つ用意してくれた。そのことを家族に話すと小学生二年のチビたちも含めてみんなが行くという。家族総出のお出ましになってしまった。
埼玉スタジオと埼玉アリーナの違いも私は分かっていなかった。大宮から一駅なのだが、ホームの雰囲気がなにやら違っている。年配の女性たちが圧倒的に多いのである。そうかそういうことなのかと、改めてその日の催しの中身を知った思いだった。
ジュリーはまだ声が出ていて、いいコンサートになった。聞いたことのある曲、程度にしか私は知らないのだけれど、歌がいいところに差し掛かると、車椅子の人も立ち上がって両手を左右に揺らす。ボックス席はゴンドラのような高い位置にあるので全体が見下ろせる。会場そのものが揺れているように感じられて、歌の力は凄いなあと感心させられると同時に、なにやら群衆の中の老人の孤独といったことが頭をよぎって、胸が熱くなった。
週刊朝日のインタビュー記事は岸部くんの半生を辿っていて、いいものになっていた。編集長が書き、マネージャーも頑張ったのだろう。岸部はあらためて自分が音楽少年だったことを思ったという。そのことを気づいたときに、ああ、自分は人にいい俳優だと言われていて、その像そのままにいい俳優であろうとしていないか、そうではない、みんなから忘れられるようにだんだんと消えていくようであればいい、そんな発言もあった。
コンサートの感想とお礼もあって新宿で飲んだ。消えていこうとする岸部くんそのものを主人公にして映画が考えられたら出てくれるかねと質問した。もちろんいいですよ、と即答。でもあと二年くらいですかね、だった。うーん、あれもこれもいまだなにも煮詰まらない。
夜のニュースで関東地方に春一番が吹いたと報じていた。私の住む北関東でも強い風が予報されていたがさして吹かなかった。ところが夜半から明け方にかけて怖くなるような猛烈な風が吹いた。
夢を見た。私は撮影している。

映画の「自由」

2024/01/19

私はヴィム・ヴェンダースと同じ生年である。若くしてドイツニュージャーマンシネマの旗手の一人としてデビューして以来、今日まで数々の映画を残してきたヴェンダースと比べられるようなものは私にはなにもないが、年数だけは同じく数えてお互いにいい歳になった。
老いれば映画が撮りにくくなる。普通に考えればそうである。映画のお客さんは相対的に若い。日本では顕著にそうだ。年配者が夕食を終えて夜の上映を見に行くなどという文化もこの国にはない。
青春映画は掃いて捨てるほどあるが、老年映画は成立しにくい。そういう事情もある。映画の、写し撮るという原理の難しさがそこにはあるかもしれない。在ることを撮るとは、在ることを肯定していく行為だから、どんないのちの様にも直接に向かい合わなくてはならない。その押し合いというか力比べに負けてしまうと、監督という行為は成立しない。
新作の「PERFECT DAYS」はどうだったのか。私にはヴェンダースのやりたかったことが見えないまま、後味の悪さだけが尾を引いて長く残った。
映画をたくさん見ている友人に感想を聞くと、あの内容で一本の映画を作ってしまい、しかもアカデミー賞の日本代表なのですから、日本映画はもっと頑張らなくてはいけませんね、だった。それはその通りで返す言葉もない。
あの内容でという事情はこうである。映画より前に、著名な建築家たちに声をかけて渋谷区の公共トイレを新しくしていく取り組みがあった。発案者はユニクロの創業者のご子息で、もともとは東京オリンピック・パラリンピックの「おもてなし」として考えられたものだったらしい。そのオリンピックはパンデミックもあって惨憺たるものになった。オリンピックなるものの意味のなさが露呈した大会だったと言ってもいい。だからなのかどうかは知るところではないけれど、この建築的にも面白いトイレを周知してもらうために、ヴェンダースに短編映画を依頼したのが始まりだったと聞く。それが一本の劇映画にまでになった。
しかしそんなことはじつはどうでもいいことだ。経済を含めて映画の企画の出発はどんなことだってありうるからだ。きっかけはなんであれ、問題はその映画がどう現出したか、である。監督が映画なるものをどうこの世の中に現れ出したか、である。
ヴェンダースは役所広司が演じる清掃作業員に平山という名をつけている。スタッフもキャストもみんなが平山さんとさん付けして呼んでいたらしい。言わずと知れた小津映画の役名で、笠智衆がいくつもの作品で演じてきたものだ。敬意を表しては分かるけれど、冗談の域を出るものではない。
ヴェンダースがこれまで基本としてきた映画のスタイルは、ロード・ムービーである。世評の高かった「パリ・テキサス」を私は好まないが、「ベルリン・天使の詩」も天使たちが旅するロード・ムービーだと見れば納得がいく。しかし平山は旅する人ではない。一つ所で生きていく生活するものだ。小津さんのいたこの日本を旅しているのはヴェンダースで、平山ではない。ではそのヴェンダースに今の日本はどう捉えられたのか。なんともステレオタイプなままで終始していなかっただろうか。
役所広司がカンヌで主演男優賞を獲ったのは慶賀すべきことで、貰えるものはなんでも貰えばいいのだけれど、あの平山の演技でいただくのは、当の本人、面映ゆくなかったかと心配になる。
というのもこの清掃員、平山の役柄は誰もが当たり前に抱える日々の煩雑さを消し去ることで作られているからだ。人物としての根に降りて行く道が最初から閉ざされている。人生のなにかを捨てて温和に単調に日々を過ごしているのではなく、トイレの清掃員を清々しく描くために、暮らしの些事は捨て去られなくてはならないのだ。役者に出来ることは人柄よく、だろうがそれだけでは表層にすぎる。
多くのコマーシャルがいかにも平穏な日常とともにあるかの如く見せかけられているけれど、暮らしの負のリアリティは持ち込まれない。そんなものを連れてこられては購買という夢を壊してしまうからだ。日々のルーティーンが決まって繰り返されるのは、それがつつましい生き方だからではなく、「PERFECT DAYS」に宣伝として条件づけられていることだったとしたら、身もふたもない話だ。目的を持った広告としての画像と、映画のもつ根源としての自由を私たちは見分けられなくなっている。

私は篠田正浩監督の「心中天の網島」「卑弥呼」の二本に助監督としてついている。小栗くんの師匠は浦山(桐郎)だろうから小栗くんは私のところを飛び出ていった不良息子だ、とそう言って目をかけてくれてきた。その篠田さんは「スパイ・ゾルゲ」を最後にして映画を撮っていない。ゾルゲは篠田さん七十二歳の時の作品だからもう二十年になる。
いっしょに昼食をとったときに篠田さんからこんな言葉が洩れた。もう僕の映画のお客さんはいない。これほど途方に暮れ続けたことはこれまでにないと、振り返ってそういうのである。すべて徒労、そんな発言もあった。
篠田さんの言葉を正確に受けとめられたのかどうかは分からないけれど、二進も三進もいかなくなっていた私にも同じ感慨があった。私は篠田さんより十歳以上も若い。でもそうだった。映画監督たる自分はいったいなにをしてきたのか、なにが出来てきたのかと、無惨なままの自分を思うしかなかった。それはいまも変わらないかもしれない。
篠田さんは烏山カントリークラブというゴルフの名門コースの理事長を長く続けられてきた。若くして交通事故で亡くなった佐田啓二を偲んで映画人がよくコンペをしてきたところらしい。赤いポルシェを駆って日帰りでプレイするほど篠田さんはお元気だった。それが年齢とともに脊柱管狭窄症を抱えるようになって長い距離を歩けなくなった。ゴルフという競技は正式にはカートに乗ってはならないものらしい。自分の足で歩いてホールアウトしないと正規のスコアとして認められない。だから最近、理事長職を降りたという。
ゴルフをやらない人にはこういう話ではなにも伝わらないだろうし、なにを能天気なことを言っているんだと叱られそうだが、私にはわかる気がした。映画監督という仕事の体感的な行き詰り方は似ているのかもしれない。
ヴェンダースは平山さんを演じる役所広司をドキュメンタリーのようにして撮ったと発言しているけれど、実際リハーサルもなく撮られたシーンが大半だったかもしれない。トイレ掃除をフィックスのカメラで撮っても仕方がない。演技というものではないからだ。手持ちのルーズな画が積み重ねられていくだけで、役者には演出家のどんな圧力もかかっていない。ご自由にどうぞ、である。
ラストシーンがいい例だ。軽自動車で仕事に向かう平山を単独で捉えたバストショットが長々と続く。セットだろう。人物の左右のわずかな抜けに窓外が流れていく。平山はいつも車でカセットテープを聞く。少し古い曲である。なにを思うのか、平山は泣き、笑い、あるいは充足して日々を振り返るのか、まったくの一人芝居である。役者の力がないと成り立たないショットではあるけれど、だからと言ってその芝居にこころが動かされたかと言えば、ない。微塵もない。そこが問題なのだ。見ている私自身のどんな悲喜にも触れてこない。芝居が方向づけられていないから、ニュートラルに中空に浮いたままだ。この同じショットを別な映画にそのまま持って行っても成立するだろう。そんな代替可能な演技などというものがあるはずがない。役者に映画を丸投げしてはいけない。映画はフレームという精神の枠で成り立っているからだ。

生きていますよー

2023/12/22

駅の改札近くで人を待つらしい男の姿がある。遠くからその人を見て、あれ、あの方はもう亡くなっているのに、などと思ってしまう。度々とは言わないまでもそんなことが現実の視線の先で起こる。
夢の醒めぎわにいま会っていた人、思っていた人はもうこの世の人ではないではない、と不意に気づくことがある。こうしたことは度々にある。夢の中でのことなのだからどっちの人であってもいいわけだけれど、そうか、いないのか、いなくなってもう久しいではないかと思いめぐらせたりしているときに、老いの孤独は感じている。
改札近くで見た人は白髪に特徴があった。ものしずかではあるけれど、嫌味を言うことにかけては天下一品の人だった。
夢ではなく現実でこの世の人ではない人と出会ったりしてはとちょっと面倒である。末期の眼などと思ったりするが、末期とは去り行く人の眼差しだろうから、亡くなった人を見ていては生死の順番が逆になる。私が向こうから見られているとしたら、それはそれで穏やかではない。多少の約束や決まりごとがあるとしても、まともに一日を始められて無事に終えられている確信が今の自分にないから、こんなことが起きる。自身の影が薄いのかもしれない。
ただこれを映画として考えれば夢の中でのことと同じかもしれず、夢でも現でもどちらでもいいということになって、老いとして直接に結びつくことではない。しかしそうした幻視のきっかけは、どうもきまって「身体」から始まるようだ。目が先ず身体を見るのだからそれも当然ではあるけれど、具体的に身体の変わり方を感じ取ることがあってから、あれこれと連想が働くらしい。
近隣の日帰り温泉で農家の人たちといっしょになる。皆さんそれぞれにいいお年である。若かった時にはいい体だったろうなあと勝手にその人の往年を想像したりすることがある。そんなときに思い出す。似ているわけではないのに死んだ父の老いた表情をそこに見る。「身体が老いる」という動かしがたい具体が私を揺り動かすのだ。
風呂で話をするようになった人も何人かいる。一人はたぶん私より少し若いだろうが、いい体をしている。そのことを言うと百姓だからね、と口数は少ない。隣にいた人がそれを補って、彼はピッチャーだったぞ、プロから声がかかったほどだったと言う。以来、私は彼をピッチャーと呼んでいる。時たまいっしょになってもあいさつ程度だから別段なんの話をするわけでもないのだけれど、出会うとなんだかうれしい。私のモノローグが多くなるからだろうか。

しばらくご無沙汰したまま消息も聞かないでいると、あらためてどうしているだろうかと連絡を取ったりすることが怖いような年齢になった。
三年前になる。司修さんが私に新著を送ってくださった。『空白の絵本―語り部の少年たちー』(鳥影社)。三十年ほど前にNHKに書いたドラマを小説にしたものだとあった。司さんがドラマを書いたことがあったとはびっくりだったけれど、それよりもなによりも、こうして本を送ってくださったのだから、司さんはお元気だったのだ、うれしかったです、と葉書をお出しすると、すぐさま司さんから「生きていますよー」と返信があった。それを伝えたくて送っていますよ、とも。
先日、山田太一さんが亡くなられた。訃報を見て、しまったと思った。どうされているだろうかと消息を辿るようなことがこれまであったからだ。
写真家の鬼海弘雄さん、批評家の前田英樹さん、「風の旅人」の佐伯剛さんたちと飲んでいたときのことである。もうだいぶ前のことになる。佐伯さんは鬼海さんの『Tоkyo View』という写真集をご自分のところから出している。近頃では見かけることのなくなった見事な大型写真集で、モノクロームである。鬼海さんが写しているのは、東京の街、路地、行き止まりの住宅などで、洗濯物が干してあったり、看板があったりする生活風景の一角と言ってもいいようなものばかりなのだが、それらはすべて無人で、ただひたすら静まり返っているだけだ。人の気配はあるけれど気の遠くなるような空虚な空間があるだけと見えなくもない。鬼海さんには『ペルソナ』という写真集があって、こちらは浅草の浅草寺周辺で見かけた個性的な人たちのポートレート。そうした人たちとの向き合い方がとことん優しくて、とぼけてもいて、素敵なのだ。『Tоkyo View』と究極で表裏をなすものと言ってもいいかもしれない。同じ一人の作家なのだからこのことに何の不思議もない。対象がどう違っても精神は同一である。
その鬼海さんから山田太一さんが倒れられたけれど、もう元気になられたと聞いた。なんで知っているのかというと、お二人とも同じ川崎市に住んでいて仲がいいのだそうである。飲み会の席でもあったし、元気になられたのなら、とそのままにして詳しくは聞かなかった。
ところがその鬼海さんにその後、血液の癌が見つかり、二年も経ずにして鬼海さんの方が亡くなられてしまった。『Tоkyo View』に前田さんが「鬼海弘雄と街の深さ」という一文を寄せている。私たちの肉眼はフレームを持たない。映画のカメラもそうだけれど、写真機という器械は、単眼のレンズによって人為のフレームを作り出す。写真は被写体から音を奪い、静止させる。その限定がどれほど豊かな世界を描くかと、前田さんは端的に書く。鬼海さんは自身のフレームが作り出したその静寂の側に、沈んで行ってしまわれた。
急に山田太一さんのことが心配になった。特別に親しくさせていただいたわけではないけれど、私の映画が出来ればご案内させていただき、山田さんはその都度、丁寧にお付き合いしてくださった。食事に誘われて歓談したこともある。けれどなにせ私の映画の数が少なすぎる。ついつい間遠くなり、あとは年賀のやり取りをさせていただく程度になっていた。
ネットで山田太一さんの近況、などと打ってみた。恐ろしいことにネット情報というのはどこまでも遡っていくらしい。こちらが知りたいと思っていたことが分かったのだからありがたいことなのだけれど、当の本人は知られることなどなにも望んでいないだろうに、盗み見するようにこちらがそれを一方的に知ってしまうことに後ろめたさがあった。こうしたことを常としているネット情報は、人としての大事なことを見失わせてしまうに違いない。
記憶に間違いがなければ、山田さんは軽い脳梗塞を起こした後、もう一度倒れられて施設に入っていた。当時の週刊ポストに「山田太一さん、断筆宣言」なる記事もあり、倒れられた後に一度だけNHKでのインタビュー番組に応じられていた。それがそのときには視聴可能だったが今は見つからない。違法にアップされていたものかもしれなかった。自分はこれまでどう生きていくかを考えてきたけれど、これからはどうやったら死ねるのかを考えなければならなくなった、とおっしゃっていた。つらい発言である。訃報には老衰とあったけれど、果たしてそんなふうに逝かれたのかどうか。老衰だったとしてもそこに行きつくまでにどんな苦闘があったのか、それは分からない。

ブログを書かないのですか、と度々言われてきた。なにしろ「あけましておめでとうございます」と書いてから何年もそのままになっているようなありさまだったからだ。
映画のこともあり、私はオフィシャルサイトなるものをもっている。そこに手記というコーナーもあるのだけれど、ブログを書いているといった意識はない。映画が動き始めた時に少しでも宣伝に役立つのならば、が本心だからそもそも根性がさもしいのである。だから続かない。
ところがこの歳になると、果たして宣伝すべき次の映画があるのかどうかも怪しくなってきた。だったらせめて「生きています」の安否確認ぐらいは綴っておかなくてはいけないのではないか。なんだ、あいつもまだ生きているのか、だったら映画のお金でも出すか、とはならないにしても。

今年の八月から十月まで足掛け三か月間にわたって私の映画の特集上映が行われた。北千住の芸術センターというところだった。フィルム上映だけだったので『FОUJITA』は含まれていなかったが、一作品一日三回上映を二週間続けるというという好待遇だった。およそ商業なるものを考えないでやってきた劇場だったからこんなことが可能になったのだろう。
プリント状態を確認しておく目的もあって、何本かを見た。私の最初の映画『泥の河』は四十年以上も前の作品である。田村高廣さんをはじめとして多くの方々がすでに鬼籍に入られている。見ながら私は、涙ぐむようにして思ったものだ。映画は生きて在る人の姿を写している。それだけでも凄いことではないか。そう考えれば、私にももう一本は撮れるかもしれない、と。

2023/12/22 冬至の日に 小栗康平

事務局からのお知らせ

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小栗康平監督×建築家・村井敬さん、トークイベントのお知らせ
2023年08月14日
小栗康平作品、特集上映のお知らせ
2023年07月14日
『泥の河』上映のお知らせ
2019年07月05日
小栗監督の叙勲についてのお知らせ
2019年05月21日
小栗康平コレクション別巻『FOUJITA』BD発売、
小栗監督全作品特別上映のお知らせ
2017年04月13日
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