小栗康平 手記

生きていますよー

2023/12/22

駅の改札近くで人を待つらしい男の姿がある。遠くからその人を見て、あれ、あの方はもう亡くなっているのに、などと思ってしまう。度々とは言わないまでもそんなことが現実の視線の先で起こる。
夢の醒めぎわにいま会っていた人、思っていた人はもうこの世の人ではないではない、と不意に気づくことがある。こうしたことは度々にある。夢の中でのことなのだからどっちの人であってもいいわけだけれど、そうか、いないのか、いなくなってもう久しいではないかと思いめぐらせたりしているときに、老いの孤独は感じている。
改札近くで見た人は白髪に特徴があった。ものしずかではあるけれど、嫌味を言うことにかけては天下一品の人だった。
夢ではなく現実でこの世の人ではない人と出会ったりしてはとちょっと面倒である。末期の眼などと思ったりするが、末期とは去り行く人の眼差しだろうから、亡くなった人を見ていては生死の順番が逆になる。私が向こうから見られているとしたら、それはそれで穏やかではない。多少の約束や決まりごとがあるとしても、まともに一日を始められて無事に終えられている確信が今の自分にないから、こんなことが起きる。自身の影が薄いのかもしれない。
ただこれを映画として考えれば夢の中でのことと同じかもしれず、夢でも現でもどちらでもいいということになって、老いとして直接に結びつくことではない。しかしそうした幻視のきっかけは、どうもきまって「身体」から始まるようだ。目が先ず身体を見るのだからそれも当然ではあるけれど、具体的に身体の変わり方を感じ取ることがあってから、あれこれと連想が働くらしい。
近隣の日帰り温泉で農家の人たちといっしょになる。皆さんそれぞれにいいお年である。若かった時にはいい体だったろうなあと勝手にその人の往年を想像したりすることがある。そんなときに思い出す。似ているわけではないのに死んだ父の老いた表情をそこに見る。「身体が老いる」という動かしがたい具体が私を揺り動かすのだ。
風呂で話をするようになった人も何人かいる。一人はたぶん私より少し若いだろうが、いい体をしている。そのことを言うと百姓だからね、と口数は少ない。隣にいた人がそれを補って、彼はピッチャーだったぞ、プロから声がかかったほどだったと言う。以来、私は彼をピッチャーと呼んでいる。時たまいっしょになってもあいさつ程度だから別段なんの話をするわけでもないのだけれど、出会うとなんだかうれしい。私のモノローグが多くなるからだろうか。

しばらくご無沙汰したまま消息も聞かないでいると、あらためてどうしているだろうかと連絡を取ったりすることが怖いような年齢になった。
三年前になる。司修さんが私に新著を送ってくださった。『空白の絵本―語り部の少年たちー』(鳥影社)。三十年ほど前にNHKに書いたドラマを小説にしたものだとあった。司さんがドラマを書いたことがあったとはびっくりだったけれど、それよりもなによりも、こうして本を送ってくださったのだから、司さんはお元気だったのだ、うれしかったです、と葉書をお出しすると、すぐさま司さんから「生きていますよー」と返信があった。それを伝えたくて送っていますよ、とも。
先日、山田太一さんが亡くなられた。訃報を見て、しまったと思った。どうされているだろうかと消息を辿るようなことがこれまであったからだ。
写真家の鬼海弘雄さん、批評家の前田英樹さん、「風の旅人」の佐伯剛さんたちと飲んでいたときのことである。もうだいぶ前のことになる。佐伯さんは鬼海さんの『Tоkyo View』という写真集をご自分のところから出している。近頃では見かけることのなくなった見事な大型写真集で、モノクロームである。鬼海さんが写しているのは、東京の街、路地、行き止まりの住宅などで、洗濯物が干してあったり、看板があったりする生活風景の一角と言ってもいいようなものばかりなのだが、それらはすべて無人で、ただひたすら静まり返っているだけだ。人の気配はあるけれど気の遠くなるような空虚な空間があるだけと見えなくもない。鬼海さんには『ペルソナ』という写真集があって、こちらは浅草の浅草寺周辺で見かけた個性的な人たちのポートレート。そうした人たちとの向き合い方がとことん優しくて、とぼけてもいて、素敵なのだ。『Tоkyo View』と究極で表裏をなすものと言ってもいいかもしれない。同じ一人の作家なのだからこのことに何の不思議もない。対象がどう違っても精神は同一である。
その鬼海さんから山田太一さんが倒れられたけれど、もう元気になられたと聞いた。なんで知っているのかというと、お二人とも同じ川崎市に住んでいて仲がいいのだそうである。飲み会の席でもあったし、元気になられたのなら、とそのままにして詳しくは聞かなかった。
ところがその鬼海さんにその後、血液の癌が見つかり、二年も経ずにして鬼海さんの方が亡くなられてしまった。『Tоkyo View』に前田さんが「鬼海弘雄と街の深さ」という一文を寄せている。私たちの肉眼はフレームを持たない。映画のカメラもそうだけれど、写真機という器械は、単眼のレンズによって人為のフレームを作り出す。写真は被写体から音を奪い、静止させる。その限定がどれほど豊かな世界を描くかと、前田さんは端的に書く。鬼海さんは自身のフレームが作り出したその静寂の側に、沈んで行ってしまわれた。
急に山田太一さんのことが心配になった。特別に親しくさせていただいたわけではないけれど、私の映画が出来ればご案内させていただき、山田さんはその都度、丁寧にお付き合いしてくださった。食事に誘われて歓談したこともある。けれどなにせ私の映画の数が少なすぎる。ついつい間遠くなり、あとは年賀のやり取りをさせていただく程度になっていた。
ネットで山田太一さんの近況、などと打ってみた。恐ろしいことにネット情報というのはどこまでも遡っていくらしい。こちらが知りたいと思っていたことが分かったのだからありがたいことなのだけれど、当の本人は知られることなどなにも望んでいないだろうに、盗み見するようにこちらがそれを一方的に知ってしまうことに後ろめたさがあった。こうしたことを常としているネット情報は、人としての大事なことを見失わせてしまうに違いない。
記憶に間違いがなければ、山田さんは軽い脳梗塞を起こした後、もう一度倒れられて施設に入っていた。当時の週刊ポストに「山田太一さん、断筆宣言」なる記事もあり、倒れられた後に一度だけNHKでのインタビュー番組に応じられていた。それがそのときには視聴可能だったが今は見つからない。違法にアップされていたものかもしれなかった。自分はこれまでどう生きていくかを考えてきたけれど、これからはどうやったら死ねるのかを考えなければならなくなった、とおっしゃっていた。つらい発言である。訃報には老衰とあったけれど、果たしてそんなふうに逝かれたのかどうか。老衰だったとしてもそこに行きつくまでにどんな苦闘があったのか、それは分からない。

ブログを書かないのですか、と度々言われてきた。なにしろ「あけましておめでとうございます」と書いてから何年もそのままになっているようなありさまだったからだ。
映画のこともあり、私はオフィシャルサイトなるものをもっている。そこに手記というコーナーもあるのだけれど、ブログを書いているといった意識はない。映画が動き始めた時に少しでも宣伝に役立つのならば、が本心だからそもそも根性がさもしいのである。だから続かない。
ところがこの歳になると、果たして宣伝すべき次の映画があるのかどうかも怪しくなってきた。だったらせめて「生きています」の安否確認ぐらいは綴っておかなくてはいけないのではないか。なんだ、あいつもまだ生きているのか、だったら映画のお金でも出すか、とはならないにしても。

今年の八月から十月まで足掛け三か月間にわたって私の映画の特集上映が行われた。北千住の芸術センターというところだった。フィルム上映だけだったので『FОUJITA』は含まれていなかったが、一作品一日三回上映を二週間続けるというという好待遇だった。およそ商業なるものを考えないでやってきた劇場だったからこんなことが可能になったのだろう。
プリント状態を確認しておく目的もあって、何本かを見た。私の最初の映画『泥の河』は四十年以上も前の作品である。田村高廣さんをはじめとして多くの方々がすでに鬼籍に入られている。見ながら私は、涙ぐむようにして思ったものだ。映画は生きて在る人の姿を写している。それだけでも凄いことではないか。そう考えれば、私にももう一本は撮れるかもしれない、と。

2023/12/22 冬至の日に 小栗康平

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